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    ペルー、ワヌコ州、コトシュ遺跡。レプリカ。左:男の手、高さ37.6cm (SAA-CP4)、右:女の手、高さ32cm(SAA-CP5)

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    「男の手」の石膏型(総合研究博物館)

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    2013年、総合研究博物館はワヌコ市で新たなレプリカのモバイルミュージアムを開始した

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交差した手

コトシュ・ミト期神殿の発見(150頁参照)以前にもペルーの海岸部では、土器が出土しない神殿遺跡の事例は報告されていた。しかし神殿を建てるほどに成熟した社会が土器を知らなかったとは考えにくく、また年代測定法の実用化前であったため古さを確かめることもできず、そもそも海岸部では一般的に土器の出土量が少ないこともあり、先土器期の建築であると確信されてはいなかった。1960、63、66年の3シーズンにわたり継続されたコトシュの発掘は大規模で、必要に応じて発掘区を拡張し、ベルトコンベアまで導入して深く掘り下げた。そして大量の土器を伴う建築群が何層にも重なりあう下で、ぱたりと土器の出土が止み、無土器の建築がさらに何層も埋もれていることを明確に示したのである。さらに調査団はそれらが神殿であることの証拠を求め、宗教美術の出土を待望していた矢先に発見されたのが壁面レリーフ「交差した手」であった。年代の近い海岸部の遺跡セロ・セチンは、人体の断片を表す多数の石彫で神殿の外壁を飾っているが、その中に同じモチーフが見られるので、おそらくこれらは切断した腕であり、人身供犠などのテーマを表現したものであろう。神殿の入り口から見て奥の壁面に施してあるが、向かって左のものは男の手、やや細い右のものは女の手と解釈されている。腕の重ね方も左右で異なっており、二元論的な対比が表現されている。

1960年に発見された男の手は、発掘のあとに埋め戻されたが、その後まもなく心ない訪問者が掘り起こし破壊してしまった。63年に女の手が発見されると、ペルー政府は同じ轍を踏むことのないよう、レリーフを壁から切り取って首都リマに移送するよう調査団に求めた。地元の理解が得られず苦境に陥った調査団であったが、地道に対話を重ね、紆余曲折の末に女の手はリマの国立博物館に収蔵された。日本人研究者は初の発掘において研究史に残る成果を挙げるとともに、地域社会との関係、文化財問題、博物館活動といった諸側面でも貴重な経験を積むこととなり、その後半世紀以上にわたってペルー社会との信頼関係のもと活動を続けている。交差した手がそのきっかけを作ったと言って過言ではない。

交差した手はペルー最古の宗教美術の代表として長らく歴史教科書の冒頭を飾り、現存する女の手は国立博物館の順路の起点「起源の回廊」の中に展示されている。近年はペルーを代表する文化財として、記念硬貨シリーズのひとつに選ばれた。とくに地元ワヌコ州では地域のシンボルとして、土産物から大学の校章まで街中にデザインされている。しかし遺跡から現物が失われて半世紀が経過し、交差した手とはそもそもどのようなものなのか、今どこにあるのか、ワヌコ市民は忘れかけていた。本館は展示中の石膏レプリカ一対と、その原型になった一対の石膏型を所蔵している。とくに男の手の型は、本来の形状を物語る唯一の素材としてたいへん貴重である。石膏型から新規にレプリカ一対を作成し、2013年にワヌコ市でモバイルミュージアムを開始したところ、開会式典は市民の熱気であふれかえった。  (鶴見英成)

参考文献 References

大貫良夫(1998)「交差した手の神殿」『文明の創造力:古代アンデスの神殿と社会』加藤泰建・関雄二編:43–94、角川書店。

大貫良夫(2013)「コインとレリーフ-よみがえるコトシュ」『ウロボロス』18(1): 13 。

鶴見英成(2013)「2つの神殿、3つのかけら-東大アンデス考古学のかたち-」『ウロボロス』18(3): 11–12。

Onuki Y. (2015) Una reconsideración de la fase Kotosh Mito. In: Seki, Y. (ed.) El centro ceremonial andino: nuevas perspectivas para los períodos Arcaico y Formativo, pp. 105-122. SES 89. Osaka: National Museum of Ethnology.