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    竜頭形装瓦器、長さ29.6cm(10253)

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    モンゴル語文書、オロンスム、16~17世紀、幅29.6cm(上段)(EG04.11.1, 14, 12)

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    ネストリウス派教会址でみつかった墓碑、オロンスム、13~14世紀(江上2000より)

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内蒙古、オロンスム都城

1935年、江上波夫は、モンゴル高原のオロンスム(多くの廟)と呼ばれる都城跡を訪れた。1930年に黄文弼が元代の石碑「王傅徳風堂碑」の存在を報告し、1934年にオーウェン=ラティモアが「内モンゴルのネストリアンの都市」として紹介した場所である。江上は、ここをモンゴル帝国-元朝時代に有力だったオングトの本拠地と考定した。オングトは、チンギス=カンの建国(1206年)に協力した部族で、その王家は皇帝の娘を嫁とする「駙馬」の家柄であった。ネストリウス派キリスト教徒であり、一時カソリックに改宗している。江上はこの遺跡を調査する重要性を説き1939年と1941年に測量と試掘を行ったが、戦争のため本調査はかなわず、戦後の混乱の中で図面のほとんどは失われ、遺物の一部は行方知れずとなった。東京大学総合研究博物館所蔵のオロンスム出土・採集資料は、このような状況を経て今に伝えられた。

建物の装飾と思われる瓦器に表された龍の横顔は、牙こそ剝いているものの、大きな丸い目、膨らんだ頬、上向きの鼻面などの表現が、ユーモラスで愛らしい。装飾瓦器をはじめオロンスムの出土資料にはモンゴル帝国の首都であったカラコルム出土資料と比較されるものが多く、オロンスムが首都に匹敵する壮麗な建物を備えた都城であったことをうかがわせる。

1368年、元は明によって北方へ追われオロンスムも炎上した。16世紀、アルタン・ハン(1507–1581)がこの地を勢力下に置く。チベット仏教が導入され、多くの寺院が建てられた。オロンスム出土モンゴル語文書は、仏塔下のネズミの巣から取り出されたもので、仏典の断片が多い。泥の塊にしか見えないものもあったが、ほぐしたところ文書が現れ、文字史料の少ないモンゴルにあって16世紀から17世紀のモンゴル語と当時のこの地域の様子を伝える貴重な文献であることが明らかになった。江上の要請で服部四郎が一部を翻訳、その後ワルター・ハイシッヒがこの文書を集成した大著を刊行した。  (畠山 禎)

参考文献 References

江上波夫(1967)「元代オングト部の王府址「オロン・スム」の調査」『アジア文化史研究 論考編』江上波夫:265–302、東京大学東洋文化研究所。

江上波夫(2000)『モンゴル帝国とキリスト教』サンパウロ。

江上波夫・三宅俊成(1981)『オロン・スムI 元代オングート部族の都城址と瓦塼』開明書院。

ハイシッヒ(田中克彦訳)(2000)『モンゴルの歴史と文化』岩波文庫、岩波書店。

服部四郎(1940)「オロンスム出土の蒙古語文書について」『東方学報』11(2): 257–278。

余遜・容媛(編)(1930)「民国十八、十九年国内学術界消息 6 西北科学考査団之工作及其重要発現」『燕京学報』1930(8): 1609–1614。

横浜ユーラシア文化館(編)(2003)『オロンスム-モンゴル帝国のキリスト教遺跡』横浜ユーラシア文化館。

Heissig, W. (1976) Die mongolischen Handschriften-Reste aus Olon süme Innere Mongolei (16.-17. Jhdt.). Asiatische Forschungen, Band 46, Wiesbaden: Otto Harrassowitz.

Lattimore, O. (1934) A Ruined Nestorian City in Inner Mongolia. Geographical Journal 84(6): 481–497.

Киселев, С. В., Евтюхова, Л. А., Кызласов, Л. Р., Мерперт, Н. Я. и Левашова В.П. (1965)Древнемонгольские города, Москва.