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    青銅製騎馬人物像。中国黒竜江省、渤海(左:報119-1、右:報119-2)

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    上京遺跡宮殿址前で出土した建築部材の石獅子(東亞考古學會1939より)

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    東亜考古学会による上京遺跡の発掘風景(東亞考古學會1939より)

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    上京遺跡内に現存する渤海時代の石灯籠(東亞考古學會1939より)

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    金銅仏。中国黒竜江省、渤海、高さ9.4cm(報110-1)

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    石製獣形器足。中国黒竜江省、渤海、長さ9cm(c-1062)

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    蓮華紋瓦当。中国黒竜江省、渤海、径15.5cm(右)(左からG150, C879, C873)

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    三彩鬼瓦、中国黒竜江省、渤海、幅43.0cm、高さ34.0cm

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北東アジア、渤海の調査

渤海(698–926)は現在の中国東北地方を中心に、ロシア沿海地方南部や北朝鮮北部に領域を広げた国である。その建国には粟末靺鞨や668年に滅亡した高句麗の末裔が関わったことが知られるが、自国の史書を残さないため、その歴史は主に『旧唐書』や『新唐書』をはじめとする他国の史料をもとに研究される。最盛期には「海東の盛国」と呼ばれた渤海は、複都制を採用しており、上京龍泉府・中京顕徳府・東京龍原府・西京鴨緑府・南京南海府の五京が置かれた。

五京のうち上京龍泉府(上京城)と中京顕徳府(西古城)、東京龍原府(八連城)の3つの都城の遺跡1)では、20世紀初頭から現在までに大規模な発掘調査が度々行われてきた。その調査・研究の初期段階には多数の日本人研究者が携わり、渤海都城の様相が明らかにされる中で、高句麗文化との連続性や、唐の長安城や日本の平城京・平安京など他の東アジアの都城との類似性が研究されるようになった。

当館には、後に本学教授となった原田淑人や駒井和愛らが主体となって行った1933年及び1934年の東亜考古学会による上京城遺跡の調査と、軍人であった斎藤甚兵衛(優)が行った八連城遺跡の調査に伴う遺物が、一部収蔵されている。これらの遺跡の出土資料の多くは、報告書の作成や遺物の保存・管理のために東京大学に移送されたものであり、戦後石仏や三彩などの精品を含む一部が、中華民国政府と中華人民共和国政府に返還された。一方で、瓦磚を中心とする多くの遺物が、現在も東京大学考古学研究室や当館などに収蔵されている。

1990年代末以降、主に中国と韓国の間で高句麗・渤海の歴史認識をめぐる論争が起こり、上京城や西古城、八連城の各遺跡では、発掘調査を含めた精力的な調査・研究が進められた。出土資料も急増し、稀少性という点からは戦前調査資料の価値は下がったと言えよう。一方で、遺物の再整理を通して瓦磚の製作技法の研究が進み、近年では3次元計測データを基にした同笵瓦の認定など、新しい手法を用いた研究も実を結びつつある。(中村亜希子)

前頁左の作品は、馬上の人物の手元に小孔が開けられていることから、吊り下げて用いた装身具と考えられる。東亜考古学会による上京城遺跡調査時に、現地の住民から購入した。馬は鞍や障泥をつけ、口や蹄の表現が巧みである。尾部は欠損する。馬に跨る人物は、裾を絞った長ズボンに短い上衣を纏う。頭髪は特徴的な形に表現するが、髷あるいは帽子であろうか。鋳造品であり中空。類例が少なく、貴重な資料である。右も同様、装飾品として用いられた青銅製騎馬人物像の一部と考えられるが、扁平かつ作りが粗雑である。馬上の人物はわずかに胴部の表現のみを残し、その上部側面には紐を通すための小孔が穿たれる。本作品も上京城遺跡付近での購入品。

渤海国は仏教を重んじており、814年には唐に金製及び銀製の仏像を献じたという記録が残る(『冊府元亀』巻972)。上京や中京、東京などの都城をはじめ、ロシア沿海地方でも寺址が発見されており、銅、石、土など様々な素材の仏像が出土した。展示品は上京郭城内の村で住民から購入したもの。鋳造による青銅の観音菩薩立像で、全体に鍍金を施す。頭には宝冠をかぶり、冠帯を肩に垂らす。首飾りや腕輪、瓔珞などで飾り、左手に浄瓶を持つ。芯を刺すため、中空になっている。光背部分は欠損。

大理石製。獣足の表現は、渤海では三足を底部に付した三彩香炉に、また同時代の唐や朝鮮半島、日本などでも香炉や硯に多く認められる。本展示品も容器に付した三足のひとつだろう。三彩香炉の獣足と同様に、獣頭の口から獣足が伸びるように表現する。発掘による出土品ではなく、現地の住民から購入したものである。なお、獣足を付した石製容器は、渤海では現在のところ本例しか知られていない。 ハート形の複弁蓮華紋は渤海の瓦当紋様として特徴的なものであり、上京に遷都した8世紀半ばから渤海の滅亡する10世紀初頭まで用いられた。上京遷都当時の瓦当紋様は蓮弁がなだらかにふっくらと膨らみ、蓮弁間に紡錘形の間弁を配するが、時代が下るにつれて蓮弁は線的な表現となり、蓮子は円環外に移動後消滅、間弁は十字形へと変わる。その末期の特徴を示す瓦が契丹の10世紀前半の遺跡でも出土しており、国の滅亡に伴い契丹に移住させられた渤海の瓦工人の足跡を辿ることができる。

屋根の棟先端を飾る瓦。眼球や鼻、牙や歯、鬣を立体的に配し、その形態は他国では類を見ない。赤色の粗い胎土表面に白化粧を施し、緑釉を中心に、部位によって黒や褐色などの釉薬を塗り分ける三彩製品。大棟の両端を飾る鴟尾や、棟の上に積む熨斗瓦とともに、建物の屋根を緑色に縁取った。上京をはじめとする渤海都城の宮殿や官衙、寺院、門址で普遍的に出土しており、渤海の建築における鉛釉陶製建築部材の使用率は、同時期の東アジア各国の中で群を抜いていたことを物語る。(中村亜希子)
注釈 1) 以前、上京龍原府址は「東京城」、東京龍原府址は「半拉城」とも呼称され たが、現在では一般的に、前者が「上京城」、後者が「八連城」の名で知られる。

参考文献 References

東亞考古學會(編)(1939)『東京城 : 渤海國上京龍泉府址の發掘調査』東亞考古學會。

田村晃一(編)(2005)『東アジアの都城と渤海』東洋文庫論叢 第64、東洋文庫。