• 画像

    勝坂式土器。把手付深鉢、縄文時代中期、東京都目黒区下目黒不動堂附近。高さ38.0cm(2250)

  • 画像

    加曽利E1式土器。把手付深鉢、縄文時代中期、出土地不明。高さ36.0cm(12858)

  • 画像

    堀之内2式土器。深鉢、縄文時代後期、千葉県堀之内貝塚。高さ15.0cm(2247)

  • 画像

    加曽利B1式土器。深鉢、縄文時代後期、茨城県椎塚貝塚。高さ19.0cm(2207)

  • 画像

    加曽利B1式土器。双口土器、縄文時代後期、茨城県陸平貝塚。高さ18.0cm(2169)

  • 画像

    加曽利B3式土器。深鉢、縄文時代後期、千葉県犢橋貝塚。高さ30.0cm(12938)

  • 画像

    加曽利B3式土器。深鉢、縄文時代後期、茨城県椎塚貝塚。高さ13.0cm(1694)

  • 画像

    安行1式土器。深鉢、縄文時代後期、茨城県椎塚貝塚。高さ15.5cm(5151)

  • 画像

    安行2式土器。台付異形土器、縄文時代後期、埼玉県真福寺貝塚。高さ11.5cm(12002)

  • 画像

    安行2式土器。台付鉢、縄文時代後期、千葉県余山貝塚。高さ10.5cm(5135)

  • 画像

    安行2式土器。注口土器、縄文時代後期、茨城県福田貝塚。高さ12.0cm(2168)

  • 画像

    安行3a式土器。注口土器、縄文時代晩期、埼玉県真福寺貝塚。高さ13.5cm(12003)

  • 画像
  • 画像
  • 画像
  • 画像
  • 画像
  • 画像
  • 画像
  • 画像
  • 画像
  • 画像
  • 画像
  • 画像

F1
関東地方の縄文土器

縄文時代の土器を縄文土器という。1877(明治10)年、東京大学の教授として招聘されたアメリカの生物学者、エドワード・S・モースは、東京府大森貝塚を発掘して多数の土器を得た。その多くに縄目の文様がついていたので、索紋土器(索とは縄のこと)と名付けた。その後、植物学者の白井光太郎が縄紋土器と呼んで今日に至っている。

次の時代に用いられたのが弥生土器であるが、縄文土器のすべてに共通する弥生土器と区別できる固有の特徴はない。ただ、弥生土器と比べた場合、いわゆる縄文土器らしさを随所に指摘することができる。

たとえば、展示資料である関東地方の縄文時代中期につくられた加曾利E1式土器の深鉢は、口縁端部に大きな突起を設け、口縁部から頸部には太い粘土の紐でS字状の渦巻き文を貼り付けている。さらに、縄文をつけた胴部にはヘビのごとくうねった沈線を垂下しているように、これぞ縄文土器という特徴が満ちあふれている。

弥生土器に立体的な文様はあまりない。それに対して、縄文土器は口縁部の突起などに代表されるように立体的である。弥生土器や銅鐸には、線でシカや鳥などの絵画を描く一方で、縄文時代に線で描いた絵はほとんどない。

こうした違いの理由は推測するしかないが、弥生文化は森を切り開き広々した平らな土地に水を引いて稲を育てる生活を中心に生まれたのに対して、縄文文化は起伏のある山野を駆け巡る狩猟採集生活に重きを置いた森の生活を中心に生まれたところに理由があるのかもしれない。森に住む万物に精霊の存在を信じたアニミズムが彼らの思考の根底にあり、それが複雑な文様や造形品を生み出す母体になっていたのであろう。

先ほど紹介した加曾利E1式土器は、千葉市加曾利貝塚のE地点で発掘された土器を標識として設定された型式である。土器型式名には、代表的な遺跡の名前を付ける場合が多い。縄文中期の後半につくられ、およそ関東地方一円に分布した。同じ時期、長野県域には曽利Ⅰ式、東北地方には大木8a式が分布した。

加曾利E式は勝坂式→中峠式を母体として、加曾利E1式→加曾利E2式→加曾利E3式→加曾利E4式と変化した。型式に年代序列をつけることを編年というが、土器編年は文様の変化をとらえて配列されることが多い。その順番は、遺跡の発掘調査によって下の地層から出てきたものの方が上の地層から出たものよりも古いという原理にもとづいて確認される。この原理は地質学の地層累重の法則、あるいは地層同定の法則にもとづくものである。

モースが発掘した明治のころには、縄文土器の型式は陸平式(現在は加曾利E式などとされている)、大森式(現在は加曾利B式や曾谷式などとされている)といった区別くらいしかなかった。陸平式は中期であり厚い土器が多く、大森式は縄文後期の土器で薄いのが多いので、厚手派、薄手派と区別され、それらは部族の差を示すと考えられていた。

大正時代、東北帝国大学にいた松本彦七郎が仙台湾の貝塚の堆積層を細かく分けて発掘調査をおこない、各層位から出土した縄文土器の文様の変化を細かく追跡することで土器型式の研究を推し進めた。松本は古生物学者だったので、生物の系統発生という考え方を土器の部位に応じた文様の系統変化に応用したのである。土器を口縁部、胴部、底部と分けて、それぞれの部位を飾る文様が発生、進化、退化を経て消滅するという進化論的な動きを見出し、その序列を層位によって確認することに意を注いだ。

この方法を受け継いだのが、同じく東北帝国大学にいた先史考古学者、山内清男であった。のちに東大に赴任した山内は、仙台湾の貝塚や関東地方の貝塚を中心とする遺跡を分層発掘し、あるいは地点を違えて出土する土器の型式を分析することで東北、関東地方を中心とした縄文土器の編年網を作り上げた。昭和初期のことである。山内は遺伝学を志した科学者であったので、やはり生物(土器の文様)は系統発生を繰り返すという観点から文様帯系統論を武器に編年をおこなった。

『日本先史土器図譜』は、山内がつくりあげた縄文土器の標準型式カタログである。生物学でカタログが重要なことは周知であるが、自らを「カタログメーカー」と称していた点に、山内の学問の自然科学的な傾向性が反映されている。展示している土器の多くは、この図譜に掲載された、学史上重要な資料である。

縄文土器が弥生土器と区別される総合的な特徴がないのと同じく、関東地方の縄文土器すべてにわたって共通した特徴はない。並んでいる土器は、中期から晩期のおよそ2000年間に及ぶが、同じ系統のものとはとても思えない。それでも時期ごとに、あるいは変化のなかにいくつかの一貫した特徴は指摘できる。

縄文時代中期の土器は厚手派と呼ばれていただけあって、ずっしりした豪快な土器が特徴である。

後期以降、薄手の繊細な土器が多くなる傾向も認めてよい。それとともに文様も洗練されて、双口や注口付など特殊な器形も増えた。縄文時代後期は、環状列石(ストーンサークル)など儀礼の施設が増加する時期であり、儀礼によって集団の統合を図ることが強化されたが、こうした社会の複雑化を土器も反映している。

縄文晩期の東北地方では、亀ヶ岡文化が栄えた。この文化は漆技術など採集狩猟文化の枠内では最高峰の技術を誇る。他の地域に与えた影響力も極めて強く、関東地方の縄文土器もその影響を大きく受けた。洗練された文様が特徴だ。この文様は、次に述べる関東地方の弥生土器に引き継がれたように、影響力の持続性も注意しなくてはならない。(設楽博己)

参考文献 References

山内清男(1967) 『日本先史土器図譜』先史考古学会(再版・合冊刊行)。