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    野沢式土器。顔壺、弥生時代中期、栃木県野沢遺跡。高さ18cm(2197)

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    野沢式土器。筒形土器、弥生時代中期、栃木県野沢遺跡。高さ16.5cm(2171)

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    野沢式土器。壺、弥生時代中期、栃木県野沢遺跡。高さ33cm(5488)

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関東地方の弥生土器

弥生土器は、1884(明治17)年に東京府本郷弥生の向ヶ丘貝塚から一つの壺形土器が発見されたことをきっかけに認められた。薄手であるのは大森式などと近いが、壺の形をしていることや、赤っぽい色をしていることなど、異なる点も目立つ。

弥生土器が発見されたころは、まだ弥生時代という概念が定まっておらず、縄文時代→弥生時代→古墳時代という、現代では常識になった時代区分が確立していなかったこととも相まって、中間土器という名で呼ばれることもあった。

弥生土器第1号とよく似た特徴の土器は九州地方に至るまで広い範囲で確認されていった。ところが、九州地方や近畿地方など西日本の弥生土器には縄文がまったくみられず、静岡県地方あたりがもっとも西の範囲である。縄文が施されているということは、それだけ縄文文化の伝統が強いことを意味する。弥生文化の特徴として青銅器などの漢文化の影響を大きく評価する研究者は、縄文文化の要素については等閑視する傾向があった。

山内は、西日本ばかりではなく、日本列島全体を見渡し、さらにそれを世界的視野から評価するパースペクティブを有していた。山内が弥生文化を構成している要素として、大陸系と独自に形成された固有要素のほかに縄文文化系の要素を見逃さなかったのは、このような広い視野をもっていたからである。

山内が漢文化の影響を過大評価することに待ったをかけたのは、大陸から訪れて西から東へと東漸する農耕文化の動態を、記紀にみられる神武東征と重ね合わせる一部の意見に対して危惧をもっていたからに他ならない。山内は弥生文化に対して、漢文化という政治的な要素を過度に強調することを批判して、稲作文化を導入した点に縄文文化との差を見出すこと、すなわち生活文化の視点から弥生文化をとらえることを促した。

展示されている弥生土器は、いずれも関東地方の弥生時代中期のものである。関東地方の弥生時代は、後期になると弥生土器第1号と同じく縄文を転がした壺はあるものの、あっさりとした横帯縄文に整理されてくる。

これに対して、野沢遺跡の弥生土器は弥生中期という弥生時代前半期に属し、幾何学的な磨消縄文で飾られる点や筒形の器形もあるといった点に、壺と甕と高坏と鉢という実用的な用途を重視した機能主義的な西日本弥生土器の器種構成との違いが如実にあらわれている。それは縄文時代後・晩期の土器の特徴をよく継承した結果である。

何よりも目立つのが、顔を表現した壺であり、顔壺と呼ばれている。展示されている顔壺は、再葬墓という墓から出土したとされている。再葬墓は、遺体を骨にしたのち、骨を埋葬する墓であり、中部地方から南東北地方の初期弥生文化を特徴づけている。顔壺は縄文時代の土偶の顔の表現を引き継いでいるので、土偶と関係をもちながらうまれたのであろう。縄文時代の土偶は女性原理にもとづき、生命の誕生をつかさどる役割をもっていた。顔壺は、そうした縄文文化の意識が継承された再生を願う器として墓に納められたのではないだろうか。

山内が重視した、西日本と異なる弥生文化を代表する弥生土器としてご覧いただきたい。 (設楽博己)