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    三貫地貝塚出土の男性頭骨(左)と核DNAを抽出した下顎骨(右)。頭骨は鈴木尚らが1954年に発掘した117(118)号、UMUT 131405。下顎骨は1952年発掘の番外B人骨群(集積墓)のうちUMUT 131464の下顎骨の一つ。この標本の第2大臼歯の歯根を切断し、内部からミトコンドリアと核DNAを抽出した

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    三貫地貝塚の縄文人骨コレクション

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B52
縄文人の系譜
初めて抽出された核DNA

縄文時代は16,000年前ごろに始まり、3000年前ごろまで日本列島中に展開していた。縄文人については、明治期以来、全国から発掘収集された古人骨標本により、多くの論考がなされてきた。その発端は、1877年のモースの大森貝塚調査に始まるが、計測可能な頭骨や全身骨が発見されたのは、1900年代に入ってからである。その後、大量発見の時代に入り、現在に至っている。本館の人類先史部門には、日本の人類学の曙期収集の人骨はじめ、数1000体分の縄文人骨が収蔵されている。大きなコレクションとしては、千葉県の姥山貝塚、愛知県の保美貝塚、それと福島県の三貫地貝塚の人骨がある。

縄文人の頭骨形態は特徴的である。専門的表現を使うと「上顎骨の前頭突起が矢状方向を向く」のであるが、鼻根部の横断面が「かまぼこ型」に隆起していると表現されることもある。さらに、典型的には眉間部が良く発達しその下縁がくぼみ、眉間から鼻根部が縦横の両方向に立体的である。一方、顔面幅が広く、眼窩と顔全体の高さが低いため「寸が詰まった」顔を持つ。計測学的には、顔の高さと幅の比が小さい「低顔」と呼ばれる。脳頭蓋は大きいが、現代日本人と比べると高さよりも幅が広く、しかも最大幅がやや下方に位置する傾向がある。

これらの特徴の一部、特に主要計測値は、アジアの南方部の古人骨と共通するため、縄文人の南方アジア起源説が提唱されてきた。逆に、近年のより包括的な数量形態比較では、縄文人と東アジア中央部集団との類似性が指摘されている。その独自性のため、アジアの人種集団の中における縄文人の位置づけは、難しい課題であり続けている。山口敏、百々幸雄ら形態学の大家たちは、縄文人は既存の「4大人種」のいずれにも属さないといった「人種の孤島」説を唱えている。

近年になり、縄文人骨を用いたミトコンドリアゲノム情報の解読が進んできた。その結果、縄文人が複数の系統から由来することが提唱されている。本館所蔵の三貫地貝塚の縄文人標本では、展示の下顎骨標本を含めた4個体からミトコンドリアDNAが抽出され、縄文人に特徴的な二つのハプロタイプ、N9bとM7aが2個体ずつ特定された。ただし、より厳密なサブハプロタイプでは、関東地方の縄文人と異なる可能性も指摘された。これらの結果は、形態的に一見均質傾向の強い縄文人の遺伝的系譜が、実際には複雑であったことを示唆している。さらに、展示の下顎骨標本を含む2個体から、縄文人の核DNAが初めて抽出された。予報では、「人種の孤島」説と整合する解析結果が発表されている。

一方、旧石器考古学の膨大な成果からは、38,000年前ごろ以後に少なくとも3つの経路からサピエンス集団が日本列島に移入しただろうと推定されている。これらの集団が、いずれもがアジアの基層集団から出現して間もなかったならば、彼らが混交しながら縄文人へ移行したとすると、形態とDNA情報の双方と整合する。 (諏訪 元)           

    

参考文献 References

海部陽介(2016)『日本人はどこから来たのか』文藝春秋。

斉藤成也(2015)『日本列島人の歴史』岩波ジュニア新書。

篠田謙一 (2015)『DNAで語る日本人起源論』岩波現代全書。

百々幸雄(2015)『アイヌと縄文人の骨学的研究』ちくま新書。