東京大学総合研究博物館 The University Museum, The University of Tokyo
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東京大学総合研究博物館ニュース ウロボロス<strong>Volime26Number2/3</strong>



コレクション紹介
イラン南西部新石器時代の土器片コレクションに新たな光を当てる

三木健裕 (本館特任助教/西アジア考古学)


 本郷本館の考古美術部門には、西アジア、特にイラン南西部の先史時代遺跡を発掘した際に採集された、多数の土器片が保管されています。こうした土器片の大半は、1950〜60年代に東京大学イラク・イラン調査団(団長:江上波夫)によって入手されたものです。土器片はおよそ縦45cm、横35cm、高さ10cmの木箱(図1)の中に、布製ラベルとともに収められています。発掘当時は、調査したあとに発掘報告書作成のため資料を日本へ持ち帰り、その後イラン側との間で正式かつ友好的に分与手続きを行うことが可能でした。ふだん博物館でよく目にされる土器の展示品から、土器片は完全な形に復元されることが多い、と思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし完全な形に復元できる土器はごく一部に過ぎず、大半の土器は土器片のまま保管されています。私は日の目を見ずに眠り続ける土器片コレクションを研究することを通して、これらを再活用する道を模索しています。
 私は東京大学大学院の修士課程に進んで以来、こうした土器片コレクションの一部を分析してきました。対象としたのはイラン南西部ザグロス山脈中のマルヴ・ダシュト平原にある、タル・イ・ギャプ、タル・イ・バクーンA・B、タル・イ・ジャリAという銅石器時代前半(およそ7000〜6000年前)の遺跡から出土した土器です。これまで一部発掘報告書は刊行されていたものの、土器片の大部分は未報告でした。イランではこの時期になると、農耕村落社会が成熟し、次第に社会が複雑化していきます。7000年前のイラン南西部では、彩文の施された土器(彩文土器、図2)を窯で焼成するという技術革新が、西方よりもたらされました。この彩文土器は硬質で、やや黄色味がかった表面に黒色の顔料で、幾何学形や動物の文様が巧みに描かれています。この技術革新の実態、および彩文土器が村落社会に与えた影響に関しては議論が続いています。
 そこで私は修士・博士課程にかけて、4遺跡から出土した土器の形態・文様・製作技術に関する分析を行いました。この分析結果を時期の異なる遺跡間で比較し、この地域でのおよそ1000年間にわたる彩文土器の変化を明らかにしました。さらに彩文土器が他のモノとともに村落社会内でどのように作られ、使われたのかを手がかりに、彩文土器の変化に社会がどのように呼応したのかを論じました。その結果、彩文土器は村落社会に到来したのち数百年ほどで根をおろし、各地で多量に作られるようになり、最終的に卓越した技巧の文様を有する土器が出現したこと、それに合わせて村落社会ではより不平等な人間関係へ変質したことを論じました。以上のような学生時代の研究から私は、本館の土器片コレクションから重要なことをまだまだたくさん探ることができる、と強く実感しました。
 以上は銅石器時代の彩文土器についてですが、イラン南西部マルヴ・ダシュト平原では、それ以前の新石器時代(およそ8300〜7500年前)から軟質の彩文土器が使われていました。本館には新石器時代を探るうえで重要な二つの遺跡から出土した土器片のコレクションも、多数所蔵されています。一つ目はタル・イ・ムシュキ遺跡です。この遺跡はアケメネス朝時代の有名な遺跡ペルセポリスから約10km南東にあり、直径約80m、高さ2mほどの円形の遺丘です。東京大学の調査隊によって1959、1965年に二度にわたって調査され、5層の文化層が確認されました(図3)。土と水とスサを混ぜた練り土で壁を作った、不定形の住居が見つかっています。その成果は1973年に発掘報告書という形で報告されています。
 タル・イ・ムシュキ遺跡出土の彩文土器(図4)は、ムシュキ期(約8300〜8100年前)というイラン南西部新石器時代の一時期を代表する標式資料となっています。その大きな特徴は、赤色系の化粧土をかけた上でさらに表面を磨くという点と、段をなす直線と丸を組み合わせたユニークな文様が多くみられる点、胴の部分がくの字に折れ曲がっている点です。発掘報告書ではこの特徴的な文様を中心に詳細な記載がなされましたが、それ以来この土器片コレクションを誰も調査しておりません。
 二つ目はタル・イ・ジャリB遺跡という、長径120m、短径60m、高さ2.5mの楕円形の遺丘です。1959年に一度発掘され、13の発掘トレンチを設けて調査された結果、全部で8層の堆積が確認されました。矩形の小部屋からなる住居群が検出されています。発掘担当者が亡くなられたために、この遺跡の発掘報告書はまだ刊行されておらず、概報と出土遺物・遺構に関する個別の論文が報告されている段階に留まっております。
 タル・イ・ジャリB遺跡出土の彩文土器(図5)も同様に、ムシュキ期の後に続くジャリ期(約8000〜7500年前)の標式資料となっています。ムシュキ期の土器とは異なり鉢形が主体で、粘土にスサが大量に加えられ、淡い黄色の地の上に白色の化粧土がかけられています。こうして器面を準備した上で、斜めに伸びる梯子状の幾何学模様が水平方向に施されます。これ以外に格子模様もみられます。この文様は8層の最下層から最上層にかけて、段階を追って変化していく様子がわかっています。本館所蔵のタル・イ・ジャリB遺跡出土の土器片コレクションは、タル・イ・ムシュキ遺跡の数倍の量に上りますが、大半の土器片は未報告に留まります。
 イラン南西部の考古学史上、ムシュキ期とジャリ期の新旧関係はいくたびも議論されてきました。2000年代からイラン南西部における新石器時代遺跡の発掘件数が増加してくると、ジャリ期がムシュキ期より古いという反論も出ました。そのなかで西秋館長と彼の学生たちが、時に海外の専門家も招聘しつつ、本館に所蔵されているムシュキ・ジャリ期両時期の打製石器、磨製石器、動物骨といった土器以外の遺物を分析するとともに、放射性炭素年代を測定しました。これによりムシュキ期では農耕と狩猟を行なっていた一方、ジャリ期になると農耕牧畜が主な生業となったこと、日本隊の見解どおりムシュキ期はジャリ期より古いことが明らかになりました。
 しかしその後も新発見が相次ぐなかで、ムシュキ期とジャリ期に関する議論は現在も続いています。両時期の間にバシ期(約8100〜8000年前)という短い時期を挟むべきだと主張する研究者もいれば、バシ期はムシュキ期の一部に過ぎないと異論を唱える研究者もいて、まだこの議論は解決されておりません。こうした議論は土器の文様のみに着眼してなされているのが問題ではないか、と私は考えています。そこで文様だけに囚われず、土器片の持つ様々な属性を細かく分析することで、時期区分の問題を解決するだけでなく、ムシュキ・ジャリ期の村落社会における土器生産と消費の違いについても光を当てられるのではないか、と考えています。
 こうした状況を踏まえ、数十年間のあいだ誰も研究してこなかったムシュキ・ジャリ期の土器の様々な属性を再検討し、薄片岩石学分析、理化学分析、残存脂質分析といった学際的な分析を行うプロジェクトを、今夏より始動いたしました(図6)。分析に取り掛かる前に、土器の入った木箱には約60年分の埃が溜まっているため、木箱とその中の土器片を慎重に洗浄する作業を進めています。私が洗浄作業を始めて3ヶ月ほどが経ちましたが、実際に手に取って観察する中で、時期の指標とされてきた文様が付いた土器はごく一部にすぎず、両時期の土器には共通点もあることが、おぼろげながらわかってまいりました。
 今後はこの膨大なイランの土器片資料の洗浄を終え、分析を通して再評価を試み、その成果を出版・報告していきたいと考えています。さらに土器片を手がかりに、新石器時代の村落社会の実態を解明したいと考えています。それと併行してコレクションを整理し、後世の研究者がしっかり再活用できるよう保存していきたいと思います。本コレクションが将来、イランと日本、および世界中の学術交流の礎になっていけば幸いです。




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図1 タル・イ・ジャリB遺跡から出土した土器片が収められた木箱.

図2 タル・イ・ギャプ遺跡(銅石器時代前半)から出土した彩文土器片.

図3 タル・イ・ムシュキ遺跡の発掘

図4 タル・イ・ムシュキ遺跡(新石器時代)から出土した彩文土器片.

図5 タル・イ・ジャリB遺跡(新石器時代)から出土した彩文土器片

図6 残存脂質分析前の,脂質抽出作業の様子.