東京大学総合研究博物館 The University Museum, The University of Tokyo
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東京大学総合研究博物館ニュース ウロボロスVolime23Number1



本館特別展示
珠玉の昆虫標本
―江戸から平成の昆虫研究を支えた東京大学秘蔵コレクション―

矢後勝也
洪 恒夫

 日本の昆虫学は東京大学に端を発し、様々な学術分野や研究機関に枝分かれして今に至る。この学問の発展には、大学や博物館のような専門機関の研究者だけでなく、むしろ在野の研究者の貢献も大きいのが実態である。その間、学術研究や教育普及のために収集され、本学に集積・寄贈されてきた昆虫標本も膨大な数におよぶ。
 今回の特別展「珠玉の昆虫標本−江戸から平成の昆虫研究を支えた東京大学秘蔵コレクション−」は、東京大学総合研究博物館に収蔵されている約70万点の昆虫標本のうち、日本の昆虫研究史の源流ともいえる学術標本から現在に至るまで継続的に収集、研究されてきた約40,000点の秘蔵コレクションを一挙公開するという試みである。この中には計15名が所有していた極めて貴重な昆虫コレクションが含まれる。自然史遺産ともいえるこれらの昆虫標本を展示することで、いわば日本の昆虫博物誌を体感してもらうことを一つの趣意とした。また、これを機に多様な昆虫への幅広い興味や科学的な探究心を抱いてほしいという願いも込められている。
 本展示の開催期間は2018年7月14月〜10月14日のおよそ3ヶ月間の日程で、企画・総指揮は筆者の一人である矢後、副指揮は須田真一氏と谷尾 崇氏、展示デザインはもう一人の筆者・洪が担当した。さらにグラフィックデザインを関岡裕之准教授と西野瞳子氏、チラシ・ポスターや図録の写真をプロ写真家・桶田太一氏と伊藤勇人氏が行った。以下では、今回の展示方法やそれぞれのコレクションの特徴などを概説してみたい。
  本展示のスペースは約12.4m×5.6m程度であるが、ここに約460箱からなる昆虫標本を四方の壁面や2つの長方形の展示ケースに敷き詰め、さらには天井から宙吊りにするなど、昆虫の壮麗さを全空間で表したインスタレーション的手法を用いて圧倒的な迫力を引き出すようにした(図1)。空間の色調は標本の存在を損なわない黒を基調とし、各コレクションの区切りは展示品に高級感を与える黄金色で表した。動線は基本的に右回りを意識しながら展示品を年代順に配置した。
 まず、入口正面にある展示ケースには、本展示最大の目玉として、日本最古の昆虫標本として知られる約200年前の江戸時代に旗本・武蔵石寿が製作した全7箱の昆虫標本を平置きにした(本表紙図)。この中の標本にはアオスジアゲハやクロアゲハ、ハンミョウ、ギンヤンマ、カイコ繭など9目約72種の昆虫が含まれる。その他にカニ、クモ、ゲジ、アブラコウモリ、トカゲ、ヤモリなども見られ、これらの多くは漢字で書くと虫偏が付くことからも、当時の昆虫として認識されていた範囲の広さがわかる貴重な資料となっている。
 この右側に広がる展示室の中央部に置かれた展示ケースには、第二の見処と言える佐々木忠次郎教授由来の昆虫標本11箱を配した(図2)。佐々木教授は日本の近代養蚕学や農業害虫学の開祖とされ、国蝶オオムラサキの属名が献名されていることでも知られる。当時の研究で使われた害虫標本やカイコ標本、明治〜大正期の東京で採集された希少種のベッコウトンボやタガメ、チャマダラセセリ、国内絶滅種スジゲンゴロウのような貴重な標本が含まれ、欧米式の針刺し標本としても国内最古級となる。また、ミツクリザメで知られる日本人最初の動物学教授・箕作佳吉の明治〜大正期の昆虫標本も同じ展示ケースに10箱ほど配列した。この標本箱内には、東京都未記録の希少種マルコガタゲンゴロウ、貴族院議員の昆虫学者・高千穂宣麿由来のコヒョウモンモドキやエルタテハなどが見られる。
 入口を進んですぐ左側の壁面には、セミ博士の愛称を持つ加藤正世の昆虫標本59箱を設置した。標本箱の中はセミ類が主体で、甲虫やチョウ、バッタ、トンボなども含まれる。加藤は社会現象にもなった昭和初期の昆虫黄金時代を築き上げた主要な人物で、東京・石神井に「?類博物館」を開館し、昆虫を通じた研究や教育活動に尽力したことで知られる。この隣には、本邦初公開となる昭和初期に採集された鳥類学者の侯爵・山階芳麿の昆虫標本43箱を配列した。昨年末に本館へ寄贈されたもので、昭和初期のチョウ・ガ類が主体となり、一部にセミが含まれる。小笠原・父島産のオガサワラセセリや箱根のウラナミジャノメなど、すでに絶滅した驚くべき産地の標本も少なくない(図3)。続いて、西多摩の博物学者・宮野浩二の昆虫標本45箱を並べている。西東京産のあらゆる昆虫を継続的に採集、標本にしていて、昭和初期の昆虫の変遷から環境の変化を読み取る上で、極めて貴重な情報源となる。その隣には、平和・トンボ資料館館長・白石浩次郎のトンボ標本10箱を設置した。日本産のほぼすべてのトンボ類を網羅する他、1950〜1960年代の東京周辺で採集された標本が充実しており、絶滅産地の標本も多く含まれている。
 入口から見て正面の壁面に設置したコレクションを左から順に説明すると、まずは国内有数の大収集家・江田茂の昆虫標本33箱が整然と並ぶ。これらは晩年まで手放さなかった選りすぐりのコレクションで、チョウ類と甲虫類が主体。その他にコノハムシやバッタ、ナナフシ、加えてサソリやウデムシのような昆虫以外の虫も含まれている。江田の本業は労働省の官僚であったが、堪能な英語力で世界各地の昆虫標本を多岐に渡り収集した。次に紹介するのは、2011年の日本・ブータン共同調査隊により約80年ぶりに再発見されたブータンシボリアゲハ標本である(図4)。ブータンは世界最高峰の環境立国で、国外への標本持ち出し許可は当初下りなかったが、ブータンと日本との友好の証、さらには同年に起こった東日本大震災からの復興の願いを込めてブータン国王陛下が贈呈下さった経緯があり、この標本は筆者の一人・矢後による採集品でもある。これに隣接するのは、チョウ類幼生期研究の大家・五十嵐邁のチョウ類標本40箱である。今回の展示品で特筆すべきは、極めて希少なオナシカラスアゲハの標本(図5)で、特にメスは国内に一頭しか存在せず、一見の価値がある。この壁面以外にも表裏で異なる色彩の五十嵐チョウ標本を11箱の両面ガラス箱に収納して展示中央部の天井から吊るすなどの工夫も凝らした。また、本壁面の最右側には、信州の蝶聖・濱正彦のチョウ類標本が整列する。最大の特徴は普通種でさえも丹念に採集して標本にしていることで、地元の全チョウ類を熱心に研究したことが伺える。
 入口正面奥の空間上部には映像スクリーンを吊り下げ、昆虫標本の作製の様子や最新のマイクロCTを用いた非破壊による昆虫標本内部の映像などを流した。また正面壁面の裏側には、PCモニターを設置し、本館ウェブミュージアム内にある昆虫標本データベース事業の成果を公開発信するとともに、本館にて進められている標本資料報告の成果物や昆虫関係の出版物も自由に閲覧できるコーナーを設けた。
 展示場右奥の壁面は、日本のファーブルとも称された須田孫七の昆虫標本47箱である。収集範囲は国内外の広範に及ぶが、中心は1940〜2000年代に収集された東京都産の標本で、東京の環境と昆虫相の変遷を知ることができる重要な資料となっている。中でもアリ類の標本は圧巻で、今回の展示でも約半分をアリが占めている。
 四方最後の壁面となる展示場右手前には、まず左からオサムシ・ハチ研究の巨匠・石川良輔東京都立大学名誉教授の昆虫標本33箱を展示した。これらは稀代の名著「オサムシを分ける錠と鍵」の原動力となったオサムシ標本および研究初期に行っていたマルハナバチ類・セイボウ類などのハチ標本で、今夏に本館との寄贈同意書が交わされて本展示が実現した。続く展示は尾本惠市東京大学名誉教授のチョウ類標本33箱である。分子人類学が本来の専門であるが、チョウ類の系統分類学的研究でもその名を馳せて、自ら現地調査で採集したアフガニスタン産チョウ類を始めとする多くの新種・新亜種の記載を行った。今回の展示品にもその一部が組み込まれている。その右隣は岸田泰則日本蛾類学会会長のガ類標本38箱である。大型美麗種から小型種までを国内外問わず精力的に収集し、ヒトリガ科を主軸とした大蛾類の分類学的研究に没頭して、200を超える多数の論文、報文を発表している。本展示品も研究に一部使われたものがある。
 最後は結言・謝辞のプレートとともに、標本箱の空箱を一列展示した。これには近年の環境破壊や地球温暖化などの影響を大きく受けて、昆虫達が激減している今、果たして将来的に環境指標として役立つ昆虫標本がこの標本箱に集積できるのか、あるいは標本箱に収蔵されるような昆虫がいなくなるほど環境が激変してしまうのか、来館者の方々にも今後の未来を考えて頂くきっかけになればという想いを込めた。
 この他に本特別展示の関連イベントとして、小中学生向けの「昆虫採集・標本作製入門」を開く予定である。このイベントは日本蝶類学会との共催で、大学構内にて採集した昆虫を展翅・展足して標本を作製するまでの技術を身につけるという狙いがある。また、計5回の講演会を理学部2号館の大講堂にて開催する見通しとなっている。講演者には矢後の他に、標本の寄贈者である石川良輔博士、尾本惠市博士、岸田泰則氏、さらには故・須田孫七氏のご長男で本展示副指揮の須田真一氏をお招きして、今回の展示品とその特色などについてご歓談頂く予定である。
 この特別展示の開催にあたり、下記の方々にご支援、ご協力頂いた。(公財)山階鳥類研究所、日本昆虫学会、日本鱗翅学会、日本蝶類科学学会、日本蝶類学会、東京大学大学院農学生命科学研究科応用昆虫学研究室、五十嵐昌子、石川良輔、伊藤勇人、井上暁生、上島 励、桶田太一、尾本惠市、柿沼 隆、勝山礼一朗、岸田泰則、清水 晃、須田真一、関岡裕之、瀬戸山知佳、築山 洋、手代木求、長瀬博彦、西野瞳子、原田基弘、谷尾 崇、堀江洋成、山崎剛史、吉田良和、Neil Moffat(敬称略・順不同)。この場を借りて心よりお礼を申し上げる。


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図1 本展示のイメージスケッチ.

図2 本学農学部旧蔵・佐々木忠次郎教授関連昆虫標本.
この標本箱にあるオオムラサキ(中央列)は属名に
同教授の姓Sasakiaが献名されている.

図3 本邦初公開となる山階鳥類研究所旧蔵・
山階芳麿昆虫標本.この世にわずかな標本しか
存在しせず、すでに絶滅したと考えられる
小笠原・父島産のオガサワラセセリ(左2列・上2列目)
が含まれる.


図4 日本・ブータンの共同調査隊により約80年ぶりに
再発見され、ブータン国王陛下から贈呈された
ブータンシボリアゲハ標本.


図5 チョウ類幼生期研究の大家・五十嵐邁の昆虫標本.
最下段の4頭は極めて希少なオナシカラスアゲハ.
特にメス(右)は国内に本標本しか存在しない.