東京大学総合研究博物館 The University Museum, The University of Tokyo
東京大学 The University of Tokyo
HOME ENGLISH SITE MAP
東京大学総合研究博物館ニュース ウロボロスVolime20Number2



ギメ・ルーム開設記念展『驚異の小部屋』
「展示法」の歴史と交流―フランス人蒐集家
   エミール・ギメ由来の展示什器とその再生

大澤 啓(本館インターメディアテク寄付研究部門 特任研究員/美学・美術史学)

 総合研究博物館は今年2月に仏リヨン市より、19世紀後半のフランスにおけるミュージアムの実状を語る、蒐集家エミール・ギメ(1836-1918)由来の貴重な文化財の寄贈を受けた。それは、いわゆる「学術標本」や「美術作品」ではなく、ギメの名を冠したミュージアムである「ミュゼ・ギメ」で使われていたアンティーク什器6点から成る。
 昨年12月、ローヌ川とソーヌ川が合流するリヨン市南端に、ローヌ・アルプ県及びリヨン市の管轄下にある大規模な総合ミュージアムが開館した。その名は「ミュゼ・デ・コンフリュアンス」。その地理的位置が象徴しているように、施設名は「合流のミュージアム」を意味し、「世界各地の文明の展示」や「アートとサイエンスの出会い」を目指している。リヨン市は古代ローマに遡る歴史をもち、旧市街がユネスコの世界遺産に指定されている一方で、近年は急発展し、最先端の都市計画を実施している。それが故に、新地区の中心的存在である「ミュゼ・デ・コンフリュアンス」の設計は、オーストリアのコープ・ヒンメルブラウ設計事務所に託され、建築も館内展示デザインも、複雑で荒々しいポストモダンのスタイルで統一されている。「ミュゼ・デ・コンフリュアンス」の収蔵品はリヨン市のミュゼ・ギメ及び自然史博物館が形成したコレクションの合併から成るが、それぞれの館で使用されていた古い什器の意匠が新しいデザイン方針に合わないため、それらは廃棄される結末となった。そこで我々はリヨン市に什器の寄贈を申入れ、それらをフランスから輸送し、修復を経てインターメディアテクで新たに組立てた。そのケースを中心に、10月2日よりインターメディアテク2階に一般公開されたのがギメ・ルーム開設記念展『驚異の小部屋』である(図1)。

商業、蒐集、啓蒙
 1836年6月2日、リヨン市の裕福な家庭に生まれたエミール・ギメは、幼少期から総合的な人間主義的教育を受ける。父親は、群青色の工業顔料「ギメ・ブルー」の開発で財をなした実業家のジャン=バティスト・ギメ(1795-1871)で、母親は地域の芸術家サークルにおいて名のある画家、ロザリー・ビドー(1798-1876)であった。エミールは家族企業の相続に向けて父親から商業及び資産管理を教わり、母親から絵画、デッサン、版画、陶芸、音楽などを学び、ブルジョアとしての教養を身につけた。ギメ家の地位を考えると、エミールはおそらく家庭教師による個人指導を受け続け、その多面的な教育が彼の人生を決定付けることになった。1860年元旦、ギメ・ブルーを生産するフルリュウ工場を任されたエミールは、音楽家としての野望を捨てて企業経営に専念し、やがては大手アルミニウムメーカーのペシネー複合企業の発展にも加わる。一方、彼は創作活動と美術蒐集を続け、地元の社会福祉に貢献し、リヨンのブルジョア階級が誇る、典型的な地方の「名士」となった。
 父親から受け継いだ膨大な財産を軍資金に、エミール・ギメは1876年に世界巡遊を計画する。5月20日、ル・アーヴル港から出航したギメは米国に向かい、現地で友人の画家フェリックス・レガメー(1844-1907)と合流する。フィラデルフィア万博を見学し、ニューヨーク地方で米国が生んだ宗教を調査し、ワシントンでスミソニアン協会を訪れた後、2人は横浜に向かう。フランス教育省の依頼で極東の宗教を調査するのが公式な任務であったものの、ギメは蒐集に専念し、僅か2ヶ月半の日本滞在で美術品900点以上、書籍1000冊以上を持ち帰った。2人は、アジアとインドを旅し、10ヶ月のワールド・ツアーを経て帰国した。その直後、ギメの立場は、蒐集家からミュージアム創設者へと変わることになった。
 1878年、ギメはミュージアムを構想し、建築家ジュール・シャトロン(1831-1884)に依頼した設計をもとにリヨン市内に建設を進める。同年のパリ万博に、アジア旅行から持ち帰った蒐集品をトロカデロ宮殿の2室に亘って出展し、文化的活動を「蒐集」から「展示」へと展開する。翌1879年9月30日、教育相ジュール・フェリー(1832-1893)がリヨン市にミュゼ・ギメとして「宗教博物館」を正式に開館する。しかし、リヨン地方での反響が乏しく、ギメは博物館をパリに移設することを迫られ、1883年1月9日にコレクションが国家に寄贈されると同時に博物館の移設が正式に決まる。1889年11月11日、リヨンの建物と全く同じ設計で立てられた「ミュゼ・ギメ」がパリのイエナ広場に開館する。ギメは最後まで故郷に拘り、パリのミュージアム・スタッフも全員リヨンから派遣したという。その間、リヨンの建物は売却されていたが、パリにおけるミュージアムの成功を受け、リヨン市がリヨンの建物を再度購入し、第二リヨン市ミュゼ・ギメを開く。1912年6月18日、ギメはリヨンの新ミュージアムの終身館長と任命される。この第二リヨン市ミュゼ・ギメは1960年代まで一般公開され、「ミュゼ・デ・コンフリュアンス」の文科系コレクションの基礎を築いた。

展示方法の構想、展示什器の移動
 今回、総合研究博物館に寄贈された什器6点は、リヨンの建物の展示室に保管されていたため、第二リヨン市ミュゼ・ギメのために1911年頃に製作されたものだと思われていた。第一リヨン市ミュゼ・ギメが閉館した後、建物が売却されたため、その中身は全て撤去されたはずである。従って、第二リヨン市ミュゼ・ギメが構想された時には、什器を新たに発注する必要があった。それを証明する、1911年7月28日付のリヨン市ミュゼ・ギメ宛ての請求書がリヨン市古文書保管所で新たに発見された。しかし、1878年パリ万博の会場写真、そして1879年にリヨン開館した「宗教博物館」の展示風景写真、更に1920年代に撮影されたパリのミュゼ・ギメの写真(図2・3)を比べると、写っている什器が酷似している。従って、今回寄贈された什器の製作年について、二つの解釈があり得る。リヨンとパリの博物館のために同じ建物を再現し、明確な展示方法を考えたギメは、展示什器を設える際にも細かく指示したことに間違いない。すると、第一リヨン市ミュゼ・ギメの什器の設計をもとに、1889年頃にパリのミュゼ・ギメ、そして1911年頃に第二リヨン市ミュゼ・ギメの展示ケースをそれぞれ誂えた可能性がある。一方、ミュージアムの全職員をリヨンから派遣するほど地元に拘っていたギメは、展示品に併せて展示ケースを丸ごとリヨンからパリに輸送した可能性が極めて高い。「展覧会は美術作品並みの明確さ、統一性、鋭さをもつべきだ」と訴えていたギメは、展示ケースと展示品を一つのセットと考え、1879年の「宗教博物館」もしくは前年のパリ万博で使用された什器をその後の施設でも使い回したことになる。
 この点を解明するには、現パリ市ミュゼ・ギメが保管する、膨大にして未整理のギメ・アーカイブを徹底的に調査する他ない。この調査は今後の課題として残るが、現段階では、寄贈された什器の意匠と材質を当時の写真資料に照合したところ、それらは第一リヨン市ミュゼ・ギメ時代のものであると推測するにとどめておこう。
 何れにせよ、今回の資料調査から明らかになったのは、「展示デザイン」に対するエミール・ギメの思想と拘りである。建築家や家具販売店と直接交渉し、自身の展示方針に基づき、アジアの展示品を見せるのにふさわしい什器を設えた。その什器が、パリとリヨンを行き来したとすると、総合研究博物館がはじめた「モバイルミュージアム」事業の原型ともいえる、移動型展示キットのもっとも早い展開である。その什器が修復を経て新たにデザインされ、インターメディアテクに設置されたことは、19世紀後半のフランスにおける「展示法」がインターメディアテクの現代的な展示デザインに組み込まれたことに相当する。このようなかたちで、近代博物館学に著しく貢献したフランスの「モノの見せ方」が、21世紀大学博物館における実験活動につながって行く。

ウロボロスVolume20 Number2のトップページへ



図1 インターメディアテク内ギメ・ルーム開設記念展
『驚異の小部屋』会場風景. クリックで拡大



図2 L. Morfaux発行絵葉書『リヨン市ミュゼ・ギメの
中国コレクション』(1920年頃).


図3 L. Morfaux発行絵葉書『リヨン市ミュゼ・ギメの
日本コレクション』(1920年頃).