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東京大学総合研究博物館ニュース ウロボロスVolime19Number1



IMT特別展示「東大醫學」
頭蓋骨が見つめた夜明け
―日本近代医学革命を担った医師達の熱き思いと使命感―

金子仁久(本学医学部標本室・博士[薬学]/医学教育学)

 「嗚呼神様、仏様。どうか御助け下さい!」 神様にも仏様にもとは何たる節操の無さ、という事はさておき、人間だれしも困った時にそう思った事はなかろうか。
 
 古今東西、それは病気に関しても同様であろう。現代では実証主義を元にした治療に頼る事が多いが、それでも治せない時、未実証の力にもすがりたくなるのは生への欲求の至極当然な帰結と言えよう。祈祷のお蔭で病が治ったという記述は枚挙に遑が無い。
 永遠の命を求め、古代エジプト王朝はピラミッドや神殿とともにミイラをつくった。そのミイラも西欧では中世から薬として使われ、我が国でも江戸時代の諸大名が服用した記録がある。
 今回の展示のタイトルにある「医」という漢字の旧字体「醫」、その異字体に「?」がある。「巫」、すなわち神の力をもって病を治すとの意味が込められていると言われる。それが薬酒(「酉」)により病を治す様になったので「醫」となった。如何にも、と感じるのは私だけではあるまい。
 人類の歴史は病との戦いの歴史でもある。祈祷から始まったと思われるこの戦いは、西欧において自然科学的考察が進むにつれ医学という学問になった。しかし、解剖学の祖といわれ実証的観察を重視したヴェサリウス(1514−1564)ですら形而上学的所見を完全には払拭出来なかったとされる。その後、デカルト(1596−1650)は生命現象を物理法則で理解しようとし、医学に実証主義への変遷という革命をもたらし、その流れが今日の医学に続いていると言っても過言ではあるまい。
 日本における医学の歴史は如何であろうか。日本の医学は今でこそ多くの面で世界をリードしているが、明治初期までは海外、殊に近代医学の源流はオランダから、その後はドイツから取り入れていた。では、何故オランダ医学だったのか、どうやってドイツ医学へ変遷したのか。これには地理、宗教、そして政治といった要因が複雑に絡み合うドラマがあった。それを見直すのは今回の特別展を考える上でも無用ではあるまい。少しの間、日本の医学史にお付き合い願いたい。
 平安時代、京では痘瘡等が度々流行、それは怨霊の仕業と考えられた。その後、日本に近い中国から医学が入ってきたが実証主義とはほど遠いものであった。しかしこの漢方医学は江戸時代まで主流となった。
 一方、1543年ポルトガル人により種子島に火縄銃がもたらされ、それ以降、様々な南蛮文化が日本に流入、南蛮の宣教師達はキリスト教を広める手段として医術を利用した。
 ところが豊臣秀吉や江戸幕府によるキリスト教禁教、更に1639年に鎖国体制に入った事から、南蛮医学の流入は途絶えてしまった。
 鎖国下の日本ではあったが、オランダからの情報は長崎の出島を通して流入した。医学に関すれば、1649年カスパルが商館医として来日、参勤時に江戸に滞在、その際、蘭方医学を伝習した。これを契機に蘭方医学に興味を持つ者が増え、当時主流であった漢方医学とともに用いられ出した。
 時は流れて1754年、日本初の記録に残る人体解剖が行われた。そして1771年、江戸で刑死体の解剖が行われ、杉田玄白らがオランダ語の解剖学書「ターヘルアナトミア」と見比べながら立ち会った。その書の正確さに驚き、何とか訳そうと試みた。悪戦苦闘の末、1774年に「解体新書」を刊行した。これを契機にオランダ語を読む道が開け、益々西洋の学問は自然科学を中心に広がった。
 この蘭学最大の恩恵は種痘であろう。天然痘の惨さは本展示のムラージュをご覧頂いていれば理解出来よう。1796年の牛痘法開発以前、医学で為す術は無く、天然痘の流行は死、または生涯痘瘡の痕に苦しむ、の何れかを意味した。
 日本では、本邦初の治療法を数多く伝授したシーボルトが、1823年に種痘を行ったものの、失敗に終わった。しかし、「何とか日本にも種痘を」と切望した佐賀藩医の提案で、1849年にモーニッケが痘痂を取り寄せ藩医の子に用いて目出度く日本で初成功、種痘は急速に全国へ広まった。因みにモーニッケは聴診器も日本に初めてもたらした。
 江戸においては漢方医の影響力が強く、1849年には蘭学禁止令が布達された事等から、ようやく1858年に蘭学者82名の譲金により神田御玉ケ池に種痘所が開設された。この種痘所が現在の東京大学医学部へと続いている。しかし依然としてこの時代の医学の主流は漢方であった為、この種痘所は西洋医学を志す者が漢方医に対抗して集まって学ぶ場所ともなっていた。
 この頃、鎖国下の日本に大きな転機が訪れていた。18世紀後半からの異国船来航である。1853年にはペリーが来航、翌年鎖国は終焉した。この事は幕府に国防の為の西洋式海軍の必要性を強く認識させ、1857年、長崎に海軍伝習所が開設された。
 ここに医学の教授として招かれたのがオランダ海軍の軍医ポンペだった。彼は伝習所で日本の医学を担う多くの人材を育成したばかりか、医師として日夜問わず診療にも献身した。長崎にコレラが大流行した際もポンペとその学生等が活躍、多くの命を救った。漢方医達の意見から洋医学排除の流れを示していた幕府も、この功績もあり蘭方医の学習を公式に許可する事となった。しかし、鎖国が解かれた為、オランダ以外の科学や文化が流入する事にもなった。
 さて、時代は江戸幕府の終焉、そして戊辰戦争へとつながる。同戦争時、負傷兵が多数出た。その殆どが銃創であり、出血や感染の処置方法が分からず死者が続出した為、新政府軍の西郷隆盛らは英国公使館から医師ウィリスを招いた。彼は会津まで従軍、当時日本では未知であった傷口の消毒や全身麻酔といった手法を使い、切開縫合や四肢切断を行った。それを目の当たりにした蘭方医達は大いに興奮、西洋医学の絶巧さを改めて認識した。
 その後、ウィリスは東京に凱旋、今の東京大学の前身で10カ月ほど英国医学を伝授していた。ウィリスは今の文部科学大臣にあたる山内容堂が重体に陥った際にその命を救った経緯もあり、彼は山内や大久保利通らにより東大教授に推されていた。
 ところが、イギリス流医学を推す者がいれば、ドイツ流医学を一番と主張する者たちもいた。医学校取調御用掛という役職にあった相良治安らが同じ佐賀藩出身の大隈重信ら政治家をも動かし、ドイツ医学が一番良い旨を必死に説きだした。もっとも基礎医学では当時はドイツが真に卓抜していたのも事実であろう。ターヘルアナトミアがドイツ人医師の著した解剖書のオランダ語訳本である事、当時医学上の重要発見がドイツを中心になされた事等をみれば推察されよう。
こうして政治をも巻き込み、イギリス流かドイツ流かの戦いは過熱していった。この様な状況の中、明治政府は種々の理由でドイツ医学採用を最終決定、英国医学も漢方医学も捨ててしまった。そのためウィリスは東京大学の職を辞し、西郷隆盛らの計らいで今の鹿児島大学の前身の校長兼病院長となった。もしこの時、イギリス流医学が採用されていれば、日本の医学は英国流となり、本特別展は「蘭方医学からイギリス近代医学へ」というタイトルになっていたかもしれない。
 1868年には天皇の意思として西洋医学採用の布告が出された。翌年、その名を大学東校と変えた東京大学の前身は、ドイツ人医師を教師として迎える準備を始めた。また政府は留学生をドイツに送った。そして1871年に軍医ミュルレル他1名が来日、医育制度をドイツ式に根本的に改めた。講義は全てドイツ語、毎週末に試験でふるい落とし、修業見込みありと認定された学生は60名を切る大変厳しい教育方法であった。
 その2代後のベルツとスクリバはミュルレルの基盤に立ち、厳しいながらも愛情深く長く学生たちを教育した。彼らは日本におけるドイツ医学教育最大の功労者と言えよう。日本好きであった彼らの胸像は今でも東大構内の桜がきれいに咲く広場に置かれており、お花見をされる方々、そしてその先にある東大病院を暖かく見守っている。この様にして日本の近代医学は蘭方医学からドイツ医学へと変遷していった。そして、その熱心かつ貪欲なまでの向学心や探究心から日本の近代医学は急速な発展を遂げたのである。
 ここで世界における医学の歴史に戻ると、アリストテレス時代(紀元前300年代)から続いていた形而上学的な自然発生説は、1861年にパスツールによりやっとほぼ否定され、彼やコッホの研究によって細菌学が脚光を浴びていた。そのコッホに師事した北里柴三郎は破傷風菌の純粋培養に世界で初めて成功、その抗毒素を発見、世界の医学界を驚嘆させた。さらに血清療法まで開発、これを同僚の研究にも応用、1901年第1回ノーベル医学・生理学賞に推挙された。その同僚のみ受賞という残念な結果となったが、この時点で日本の医学が如何に急速に世界と肩を並べたかが理解できよう。
 本特別展は、漢方医が主流であったその様な時代に、医学に対して飽くなき情熱を注ぎ、そして明治維新後、富国強兵を国の方針としてあらゆる分野において「西洋に追いつけ追い越せ」をスローガンに掲げて切磋琢磨した日本人の熱き物語なのである。
言葉も儘ならないオランダやドイツの医学を学んだ日本人、彼らがどの様な資料を用いて修学し、そして世の人の為にその生命を捧げたか、その情熱と浪漫を感じて頂ければ幸いである。 最後にポンペの言葉を挙げておく。
「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら他の職業を選ぶがよい。」
 彼が持参し、当時の蘭方医がこぞって撫で回した結果として黒光りしている頭蓋骨(図)を見ながら、先人達の情熱や使命感を感じて頂きたい。








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図 ポンペが持参した頭蓋骨.