東京大学総合研究博物館 The University Museum, The University of Tokyo
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東京大学総合研究博物館ニュース ウロボロスVolime16Number3



特別展示『生きる形』
『いのち』と『形』の物語

山田昭順 (本館研究事業協力者/写真家)

いのち曼荼羅
 「いのち」の本質を探り写真作品とする行為は、苦悩に満ちた長い旅だった。旅の途上で直面したのは、私自身と私に係わる人々の不如意な「いのち」の数々。あれから二年、気づけば私はサイエンスとアートが交差する地点に立っていた。そこで私が見たものは「生」と「形」が織り成す絢爛たる「いのち曼荼羅」に他ならない。
 時間という大海原を、生と死の歴史を繰り返し航海してきた「いのち」は、生活環境に適応した機能的で美しい「形」を獲得してきた。私たちが便利に使っている身体も遠い旅の記憶を秘めている。私は人の身体に限りない美しさを感じ作品を制作した。今回展示している「渾沌未分」「生々流転」「多汁果実」の作品群は、「いのち」と私の旅の航海記とも言える。ここで時計の針を私が旅に出る直前の二年前に戻そう。

「いのち」を感じる作業
 作品のタイトルから、察しの良い読者は、私が「いのち」の作家、岡本かの子に心酔していることにお気づきだろう。小説家、岡本かの子が高らかに謳い上げる「いのち」の輝きは、私の心をつかんではなさない。私はかの子に、「いのち」という妖しい呪術をかけらてれてしまったのかもしれない。
 かの子は小説の登場人物をあやつり「人生不如意」の様々な場面を私たちに見せてくれる。前後不覚、手も足も出ない困難な状況に置かれても「いのち」は絶えず「生きよ」と語りかける。そして、あらゆる手段をつかって「生かそう」と企てる。絶体絶命の状態に陥った人間が「いのち」の叫びに気づき、「いのち」の存在をはっきりと認識した瞬間、神秘的な「いのち」の力により、飛躍的に「不如意な状況」から脱却して行くというのだ。私はそんな「いのち」に会いたくて二年前のあの日「命の認識」という風変わりな展覧会へ行った。
 「苦悩の部屋へ、ようこそ。あなたを苦悩のどん底に陥れる空間を、東大の博物館に創ってみたいと思っていていた」という挨拶文にひるみつつ、私は展示室へと歩みを進めた。灰色で統一された室内には、円に近い不定形なステージが作られていて、その上に無数の骨格標本が並んでいる。説明文は一切なく、おびただしい骨、骨、骨。
 「骨を前にして、いったい何をしろと言うのだろう?」途方にくれた私には、ステージの周りを歩きまわることしかできなかった。三周くらい歩いた頃だろうか、私の目と脳と体と心が「骨」というものに慣れてきて「よし、じっくり見てやろう」という気持ちになった。見れば見るほど骨の存在が切実に映り、雄弁にその成り立ちや機能を語りだす。ものは見ようとした時に、はじめて見えてくるものなのかもしれない。
 「骨」を見ても私は苦悩しなかった。骨は機能的でまったく無駄がない。生物を「生かす」ため、必要に応じて最適な形に出来上がっている。その美しさは精密機械の部品を見ているようで、ただただ感心するばかりだ。たくさんの骨を見て私が感じたのは、「体は生きたがっている。また、生かそうとしている。そして死の瞬間まで生きようとしている」と言うことだった。それこそは、岡本かの子の説く「いのち」の策略と同じだ。「そういうことだったのか!」と私は小さくつぶやいていた。
 「命」をぼんやりと認識した私は「いのち」というものがますます好きになり、「いのち」の本質を追求する次なる作業に取りかかる決心を固めた。私の苦悩がはじまったのはそれからだった。

渾沌未分
 私が最初に取り組んだのは、人間の肉体に、既に撮影してある骨格標本をプロジェクターで投影し、それを撮影した「渾沌未分」の作品だった(写真1、2)。
 人間の肉体の上に映し出されたイノシシの頭骨は、筋肉の起伏にあわせて引き伸ばされ歪んで凄味を増す。ポッカリとあいた眼窩は諸行無常を体現し、奥歯をかみしめながら迫ってくる。まるで「いのち」というものの本質を私達に語りたがっているようだ。
 私がその「穴」に気づいたのはその時だった。頭骨の上顎の側面にある「穴」。なんのための穴なのか? 「昔あった牙の痕跡かもしれないな」などと軽く考えていた。しかしその「穴」が、やがて私を「いのちと進化の不思議な世界」に連れ去るとは想像だにしていなかった。
 後日、その「穴」の意味を知る事になる。国立科学博物館・新宿分館のイベントに行った時のこと、ある博士が「この穴は神経の通る穴なんですよ。ここにもありますね。この穴は位置が少し違っていても哺乳類にはみんなあるんですよ。もちろんヒトにもね」と教えてくれた。あれは神経の通るための穴だったのだ。私は自分の顔を触ってその穴の位置を確かめた。「おや?これは! 目が疲れたときや歯が痛いときにおすツボのある場所だ!」私は自分のツボを刺激しながら、知識というものが実感として体中に染みわたって行く、本当に「解かる」という感覚を楽しんでいた。私が理解したのは「人間も動物も同じなんだ」という、ごく当たり前の事実だった。
 それ以来、撮影のために哺乳類の頭骨に出会うたび、私はこの「穴」を最初に探した。「ウシ」「ウマ」「ライオン」「キリン」「ラクダ」「クマ」「モグラ」。それぞれ位置は違うがやはりあの「穴」がある。「そうか、お前はこんなところにあったのか」私はうれしくなってつい語りかけてしまう。みんな私達の仲間なのだ。
 「我々哺乳類は全然違うように見えるけど、本当は良く似ているんだな」
 私は自分の顔のツボを押しながら、そんなことを時々考えていた。

多汁果実
 人体に骨を投影する作品を制作中に私はふと「この逆をやったらどうなるだろう?」と思い始めた。骨格標本に人体を投影する作品…。私は完成した作品を想像する前に、次なる準備に取りかかった。それは、人体の撮影である。
 ここで、写真とダーウィン進化論の不思議な関係を話したいと思う。写真が発明されたとされている年代は、ダーウィンが測量船ビーグル号に乗って航海に出たのと同じ頃だった。ダーウィンが進化について思考をめぐらせていた時期、写真の技術も研究・改良の試行錯誤のただ中にいた。新しい方式が開発され写真が一般化したのは「種の起源」出版の少し前くらいだ。
 写真が発明されたのち一年もたたずして「裸の人間」の撮影が試みられた。「ヌード写真」の第一歩だ。それ以来、人は「裸の人間」を撮りたがった。それは写真という新しい技術の持つ「記録性」という特性に負うところが大きかったかもしれないが、普段は衣服によって覆い隠されているヒトの身体への好奇心が多分に働いていたのだと思う。ヒトの体はいろんな意味で魅力的だったのだろう。「知っているようで知らないもの」人間の身体はそんなものなのかも知れない。現代社会において、自分以外で服を着ていない人の身体を見る機会はほとんどない。温泉や銭湯などの浴場、プールや土俵などのスポーツの場などに限られている。例えそのような場所でも他人の身体をジロジロ観察するわけには行かない。見ているようでいて見ないようにして、頭の中で全体のイメージをボンヤリと認識しようと努めている。
 私は膨大な数の写真の中から展示するものを選び出す作業をしていた。もちろん全てが裸の人間の写真。作業を続けながら、ふと「肌色の写真ばかりだ、濃淡はあるけれど人の体はほぼ肌色だ」と感じた。肌色以外の色は顔を中心とした頭部と性に関与する部分にしか存在しない。裸にしてみるとヒトはとても「地味」な生きものだった。
 「なぜヒトの身体は地味なのか?」その答えは私たち人類が所属する哺乳類の進化の歴史にあるらしい。我々の先祖である哺乳類は恐竜が闊歩する地球で、闇の世界で逃げ隠れしながらひっそりと生活していたようだ。光の世界に住むようになり視覚を発達させ、微妙な色を見分けられるようになっても、私達の体は目立たぬようにひっそり生きていた頃の名残をとどめているのだろう。
 写真の特性を認め、また有効に利用した画家ドラクロワは日記に「裸の男の写真を飽きることなく見つめている。人間の体、これは美しい詩。私はこの写真を読みとろうとしている」と書いているという。私もこの「美しい詩」を読みとるために人体の写真を執拗に撮りつづけた。カメラを前に「裸の体」は静かに語り出す。「生きる喜び」や「老いの悲しみ」やそして「進化の道程」までも。私は気づいた。我々の肉体はみずみずしい果実に他ならない。このようにして「多汁果実」は完成した(写真3)。

生々流転
 東京大学総合研究博物館の地下にある骨格標本収蔵室。陰影をつけてライティングされた頭骨の上に人体の写真を投影した瞬間、あまりの美しさに私は息をのんだ。私が追い求めていた至高の美がそこにあった。かつての「いのち」を宿した「形」の上に、今を生きる「形」が輝いている。二つの形が渾然一体になり、「いのち」の逞しさを雄弁に語っている。生物にはそれぞれ生きられる時間が決まっている。それを過ぎると必ず死が訪れる。「生きる」ということは死があってはじめて成り立つものなのかもしれない。
 「ゆく河の流れは絶えずして しかももとの水にあらず」鴨長明のこの言葉が、私の心に響いていた(写真4、5)。

生きる形
 「いのち」の本質を探り写真作品とする行為は、苦悩に満ちた長い旅だった。旅の途上で直面したのは、私自身と私に係わる人々の不如意な「いのち」の数々。あれから二年、気づけば私はサイエンスとアートが交差する地点に立っていた。そこで私が見たものは「生」と「形」が織り成す絢爛たる「いのち曼荼羅」に他ならない。
 生物は皆、「生命の樹」の枝先にたわわに実った果実なのだ! 渾沌未分・生々流転・諸行無常、それらの全てを乗り越えて「しっかり生きたい」と切実に思う。今、私は生きている。ただそれだけで満足だ。





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写真1 人体にオオカミの頭骨を投影した作品


写真2 人体にイヌの頭骨を投影した作品


写真3 人体(背面)


写真4 バイソンの頭骨に人体を投影した作品


写真5 イルカの頭骨に人体を投影した作品