東京大学総合研究博物館 The University Museum, The University of Tokyo
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東京大学総合研究博物館ニュース ウロボロスVolime16Number3



特別展示『生きる形』
『命と形の交錯』

遠藤秀紀 (本館教授/遺体科学)

ちょっとした後悔
 「科学と美術を融合するとは、すごいですね」
 「そうなんですよ、納税者さん」
 衆愚がこしらえるよくある公共事業の博物館なら、そういう会話をするだけで間がもったりもする。幼稚園児に赤いウインナーを与えるように、平成デフレを謳歌する行革至上主義、市場原理主義、拝金合理主義の人々に単純なアカウンタビリティを喰わせておくなら、それでもよいのだろう。
 対極的に、私の頭はいつも「理美」の熱狂に追いまくられているので、「生きる形」でとりたてて日常の出来事と隔たった表現をしたつもりはない。技法の巧拙は別途に自由に感じとってもらえればそれでいいとして、手法について触れるなら今度の展示には珍しく文字がある。
 二年前のことになるが「命の認識」展を開いたとき、私はタイトルの四文字以外は展示場に残さなかった。タイトルも、もしそれが無ければ何屋さんなのか分からないままガラス扉にぶつかる歩行者も出るだろうから、仕方なく書いたくらいなものである。あれから二年を経たくらいでは、私の飢え渇く展示空間の姿が、根源から変化するものでもない。ただ出来心で、ちょっとだけ字を使って、空気感を邪魔してみたくなった。
 そのせいで、見る人は大した変哲もないホルモン焼き屋の食材のような物体が、わが国随一の忠義のイヌの臓物であることに気づいてしまう。眼が三つある頭蓋骨が、実は先天異常のウシの亡骸であることも知ることができる。そしてそもそも、この空間をつくるのに三人の監督なる人間がかかわっていたことを、文字で読んで知ってしまうのである。
 少しだけ後悔している。何人もの人が内臓焼きに似ていると思ったまま心穏やかに展示場を去り、静かに思いを胸に抱くはずだったものを、大学教授の余計な説明で水を差し、忠犬ハチ公なる存在を来館者に想起させてしまったのだ。
 「すごいぞ、人類の美はここにありだ」と、希代の名画を地球の裏から運びでもしたら、新聞社の事業部やテレビ局の制作部と一緒になって楽しくもないのに笑いながら叫ばねばならないのが、世の経済原理の避けられない筋道だ。だが、「生きる形」展なら、七十年前なら忠義なる国家精神を具象化した目出たい犬の内臓を、二〇一二年の人々にアメ横の赤提灯の仕入れ物に似た閲覧物だと思わせたまま、ずっと公開し続けることができただろうに。
 「しまった」
 小さなチャンスを自分の言葉で丸々逃がして、それでも監督を名乗るヘボキュレイターは、今日もここで仕事を続けねばならない。

探究者の熱狂
 標本と造形と写真が、「生きる形」の本線をつくる。標本と写真は、私が解剖学者を演じるとき、現実の商売道具に化けてくれる。標本は、ここでは多くが骨と剥製の姿をとるが、実際には切れば血を流し、時間が経てば腐りゆく生き物の身体でもある。一方、展示場はずれに地味に構える冷凍庫には、実は普段から私の対面してきた死体の部分が、かなり具体的に収まっている。
 この冷凍庫の中にあるような死体を手にしながら、好奇心を根拠に、指先と目で、私は立ち向かっていく。現代の多くの科学が、発見の瞬間を、測定装置、分析機器に担わせてしまっているのに対して、解剖学のその瞬間は、解剖する者の五感が頼りだ。目で覗き込み、指先で触れて感じとる。つまりは発見する行為が、生身の人間の五感によって完結しているのだ。
 解剖学は、これだからやめられない。美術で音楽で文学で、美を求める人々がその第一歩を精神世界で完成させるように、解剖学の発見は、美を追い続ける人間がそこに指先をかすめたときに感じる、その一瞬の感動によってのみ創られるものなのだ。
 解剖学は一方で自然科学に地歩を占めようと、もちろん定量性を大切にしてきた。骨を見れば長さを測り、筋肉を見れば断面積を算出し、臓器を見れば重量を測ってきた。だが、それは解剖学が巻き込まれた情勢の一断面でしかない。一定以上に定量化されて、センスで感じ取ることができない数値群に化けたとき、解剖学者にとって、既に仕事の九十九%までが終了し、後はただの予算報告書を書いているのと違わなくなる。それがいかに面白く評価の高い科学論文の執筆作業であっても、五感を離れた段階に入ると、心のうちではもはや余興に過ぎなくなっている。つまりは、解剖学者は皆、メスを握った経験の深浅の如何を問わず、発見の瞬間の、死体から指先に迫ってくる筋肉の弾力や腱の固さや骨の凹凸に酔いしれて、解剖を続けているのだ。
 私はといえば、やはり確かに定量化はする。「私が触ったらこの筋肉は太かったんだよ」といくら言っても、それでは科学にならない。だから小難しい機器を時々使って、死体の様子を数値に換える。だが、それは私にとってはどうでもいいことである。とある臓器を裏返したときに見えてきた身体の奥底の光景が、とある関節を力いっぱいに曲げたときに掌に返ってくる死体の硬さの感触が、私を魅了している。死体との対話から逃れることができずに、解剖を続けているのだ。定量化など、数値など、二の次である。そのことが好きでやっている世の自然科学者には申し訳ないが、客観性やら説得力やらは、私の解剖では付け足しの形式主義に過ぎない。「生きる形」の神秘に熱狂する私は、数値や解析に自己存在の本質を置くことはない。自分が生きる意味はただひとつ、死体との楽しすぎる対話なのだ。
 それこそが、「生きる形」の空気なのである。

形たちの履歴
 展示空間「生きる形」はもちろん展示物があってこそ成立している。しかし個々の展示物を見るという行為とは別に、空間それ自身が、死体と対話してきた私の作品であることに気づかれるだろう。この部屋の空気は、無数の生きる形と私とが織りなす「間柄」である。そして、展示の場を借りて、その空気を皆さんに呼吸してもらうことができる。皆さんが入口から来て出口から帰っていく間に、いかに心を揺さぶられ、いかに死を生を感じとったかが、私の関心である。もとい、私が明日また「生きる形」を感じとるための原動力なのである(写真1)。
 展示場の新しい試みに、木枠に止められた骨格群がある。三次元ゆえに、照明の光の先が、とある角度で骨と木枠を通過していく。私の原初的な思いは、宙に浮いて自由になった骨の美を追い求めたい、というところにあった。試行のうちに、木枠の中でピアノ線で固定された骨たちは、決して自由というセンスを満たすものにはならなかったが、意図したこととは異なって、「額縁への美の静止」が成立してきた。作品に付き物の、計算外の世界に踏み込んだと感じられる。当初は肩甲骨や肋骨のような平らな骨で制作していたのだが、厚みのある骨に光を当てると、額縁に切り取られた新しい陰影の世界が生じることに気がついたのである。試作品をいくつも作り、至ったひとつの到達点が今回の骨群である。数十枚からなるこの吊り骨群が、皆さんの美への想いを、どのくらい揺さぶることができるか。ぜひ、感じられたことを多くの人々と討論させていただきたいと考えている。ちなみに四十七作品中、一点だけ、額縁から這って逃げようという命を表現してあるので、フロアで対話して頂きたい。
 ハチの臓器とニワトリの剥製、そして奇形のウシの頭骨は、人と命との直接的関係が成した「形」である。秋田犬ハチと和鶏群については、図録「生きる形」に詳述した(文献1)。前者は言うまでもなく日本でもっとも有名なヒトと動物の物語をつくってきた。大学、アカデミズムがその社会的背景や思想性に対してどのような関わりをもち、これから持ち得ていくかは、図録「生きる形」に論議してある。
 和鶏剥製群(写真2)は、日本農産工業株式会社から寄贈されものである。日本の鶏は、肉や卵といった畜産業の物理的生産物としての存在に終わらない。飼うことを楽しんだり、鳴き声を愛でたり、闘いの熱狂に興じたり、姿の美を競ったりなど、和鶏と日本人の関係は、深く多彩だ。日本人の精神世界に潤いを与え続けて、人との関係を築いてきたのが和鶏なのだ。そうしたニワトリたちの素顔を、生きる形として感じとっていただけたら幸である。
 奇形のウシはといえば、帯広畜産大学に蓄積されてきた先天異常の新生子群である。この生きる形は、まさに人に大切に飼われ、人間社会の食資源を支えてきた命ゆえの足跡であるといえる。異様な形ではあるが、これもまた、人と命の間柄であることを思慮してみたいと、私は感じている。

人の形・人の思い
 さて、少し離れた部屋につくられたのは、動物よりもより人間に近い空気感である。周囲を固めるのは雄のニホンジカの頭蓋と、骨を写し込まれた男性の裸体だ。展示室の中心に位置するのはどうやら水に落下した女性の身体か。性別の囲いが、私の思い以上に明瞭になっている(写真3)。
 「いま、人の生へ」と名づけられたこの部屋は、人間と動物が、命という接点を見出して混在、融合する世界だ。現実のヒトの標本は一点もないのだが、エロティックに人間を思わせる可能性を引き出しているかもしれない。
 こうした空気感に満たされて、「生きる形」への熱狂は、生々しい人間と交わることで結実していくのだろう。ここに至って、「生きる形」を求めてきた私の試みは、小さいながらも飽和点に達したと感じている。そして飽和は、また次なる挑戦への力を生むのである。「生きる形」は、松岡象一郎氏、山田昭順氏との“三人監督”で生み出したひとつの作品である。三人はこの空間づくりについて無用な討議をすることはなかった。なぜなら美を感じ、空間をつくることにおいて考えることは、最初から一致しているからである。形への熱をそのままぶつけることで、この空間で気持を満たす三人である。
 展示場はとりあえず仕上がった部屋であるが、来館者と同じ空気を呼吸してこそ、展示場はまた一段と力を得る。そして、私自身も創り手たちも、この先もどこかで皆さんと出会うことができる。ぜひ皆さんとのお喋りを通じて、さらなる生きる形の深化を図りたい。ちなみに皆さんとの対話に飢え渇く夢教授の日常も、拙著にちょっとだけ描いた(文献2)。

文献1 遠藤秀紀(2011) 「人に魅入られた命」 (河部壮一郎・松岡象一郎・山田昭順・遠藤秀紀 「生きる形」 東京大学総合研究博物館、東京.pp.244-251.)
文献2 遠藤秀紀(2011) 「東大夢教授」 リトルモア、東京.





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写真1 骨と造形と対話する。ここから創作者はまた力を得て
歩み続ける。


写真2 ニワトリ。人はこれほどにニワトリを愛でた。その
間柄に生まれる力こそが、展示空間を支える。


写真3 雄性に囲まれた女。ここではヒトの形が命を
表現する。