東京大学総合研究博物館 The University Museum, The University of Tokyo
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東京大学総合研究博物館ニュース ウロボロスVolime15Number2-3



特別展示
ヒマラヤ・ホットスポット
−東京大学ヒマラヤ植物調査50周年

池田 博 (本館准教授/植物分類学)
 2010年は「生物多様性」という言葉を頻繁に目にしたり耳にしたりした。というのも、10月に名古屋で生物多様性条約第10回締約国会議 (COP10) が開催され、世界的に絶滅の危機に瀕している生物の保護・保全や、生物資源によってもたらされた利益をどのように分配するかなどについて議論がなされ、国民の関心を集めたことによると思われる。
 ところで、「ヒマラヤ」という言葉を聞いて何を思い浮かべるであろうか?「世界一高い山エベレスト」、「雪と氷の大地」、「雪男」などであろうか。少しよく知っている方ならば、「ユキヒョウ」、「青いケシ」、「ヒマラヤを越えるツル」などもご存じかもしれない。しかし、ヒマラヤとその周辺地域が世界でも有数の生物多様性の高い地域だということは案外知られていないのではないだろうか。
 「ホットスポット (HOTSPOTS)」という本がある (Mittermeier et al. 2004)。世界の中でも生物多様性が高い地域を選び、その特徴を解説した本である。本来「ホットスポット」とは地学用語で、「マントル内部の特別な高温部。マグマを発生しつづけ、その上で火山活動が起きている場所(大辞泉)」とされる。生物学の分野ではこの言葉を生物多様性の高い地域として用いている。多様な生物が生育する、あるいは次々と新しい種が生み出されるさまを海底火山のマグマの噴出になぞらえているのであろうか。前出の本「ホットスポット」によると、世界の34カ所がホットスポットとして認められている(日本もそのひとつとされている)。ヒマラヤ地域も「ヒマラヤ・ホットスポット」と呼ばれ、隣接する「西南中国・ホットスポット」とともに広大な面積を占めている。
 ヒマラヤの植物といえば、一般には色とりどりの花を咲かせる高山植物をイメージすると思われるが、ヒマラヤでも高山植物が生育するのは標高4000m以上の地域であり、その下には日本であれば本州の山地帯で見られるような温帯性の森林が発達し、さらに平野部ではインド平原に続く亜熱帯性気候のもと、熱帯性の植物さえ生育している。
 東京大学では1960年代以降、ヒマラヤ地域の植物の多様性を解明すべく、多くの調査隊をヒマラヤ地域に派遣してきた。その結果、この50年の間にヒマラヤの植物に関する数多くの知見が得られ、研究の基礎となるおし葉標本の数は40万点に達する。この特別展は、東京大学を中心として続けられているヒマラヤ地域の植物研究を振り返り、その成果の一端を示すとともに、多様なヒマラヤの植物を実物標本や模型を使って紹介することを目的とした。

1960年〜1970年代
 総合研究博物館の元館長(当時は総合研究資料館)でもあった故 原寛教授 (1911−1986) は、日本の植物の起源を探るべく、ヒマラヤ東部への植物調査隊を組織した。日本の植物の起源を探るのに最も必要なのは、距離的に近い中国を調査することであったが、当時は外国人が中国に入境して調査することは困難であったことから、ヒマラヤの調査は苦肉の策でもあったと聞いているが、結果的にはこれが東京大学のヒマラヤ地域での調査の始まりとなった。
 第一回のヒマラヤ調査隊は、1960年の4月から6月にかけて、インド・シッキム(当時はシッキムは独立国で、シッキム王国であった)でおこなわれた。調査隊員は原教授をはじめとする植物学者5名および日本人医師1名の6名であった(表紙参照)。当時は飛行機の便も悪く、調査用具などの資材は船便で送り、インドのカルカッタ(現在のコルカタ)から荷揚げをおこなった。
 第二回の調査隊は1963年に派遣され、春にシッキム、秋から冬にかけてネパールで調査がおこなわれた。ネパールでおこなう調査はこのときが初めてであった(図1)。
 その後も1967年、1969年、1970年、1972年、1977年と継続的に調査が続けられた。隊長も原教授から金井弘夫助教授(1930〜)、大橋広好教授(1936〜)により継続された。
 この時期の研究は、野外で採集した植物体を新聞紙に挟んで乾かした「おし葉標本」をもとに分類学的研究を進めるとともに、採集品をリストアップし、訪れた地域の植物相(フロラ)を解明することが主たる目的であった(図2&3)。それは、当時ヒマラヤの植物相の全貌が明らかになっておらず(現時点でも調査が不充分な地域は広く残されているが)、ヒマラヤのどこに、どのような種類の植物が生育しているのかを明らかにする調査(インベントリー調査)が求められていたからである。
 この時期に採集された標本をもとに、"The Flora of Eastern Himalaya (「東部ヒマラヤ植物誌」1966年刊)"、"同 第二報 (1971年刊)"、"同 第三報 (1975年刊)" がとりまとめられた。この一連の著作の中では、原教授だけでなく、多くの分類学者の協力のもと、新分類群(新種や新変種)の記載や新分布の報告などがなされた。
 この時期の画期的著作として、"An Enumeration of the Flowering Plants of Nepal Vol.1−3(「ネパール産顕花植物目録1−3巻」 1978−1982)"がある。これは、それまで全貌が明らかになっていなかったネパールの種子植物について、標本をもとにリスト化したもので、イギリス・大英博物館と東京大学との合同プロジェクトとして発刊されたものである。
 原教授らが採集した標本は東京大学植物標本室 (TI) に納められ、現在TIが誇る世界屈指のヒマラヤ植物コレクションの基礎となっている。

1980年代〜現在
 初期のヒマラヤ調査は、日本と関連のある植物の研究をおこなうことを主目的に実施されていたため、その調査地も温帯域を中心としたものであった。しかし、世界最大の山脈であるヒマラヤ山脈には広大な高山帯が広がり、多種多様な植物が生育していた。この高山帯に生育する植物に目をつけたのが大場秀章教授(1943〜)であった。大場教授は対象を高山植物中心とし、研究を進めた。また、研究手法も従来の乾燥標本を中心とした記載分類学的な方法だけではなく、さらに解析的手法も積極的に取り入れた。
 染色体の観察にもとづく細胞遺伝学的手法はその一つである。それまでは現地で種子を採集し、日本に持ち帰り播種し、発芽した生長点を用いて染色体を観察していた。しかし、その方法では多くの種類を観察することは難しく、しかも種子が採取できないものについては染色体を観察することは不可能であった。東京都立大学(現首都大学東京)の若林三千男教授 (1942〜) は、その問題を解決すべく、現地で生長点を処理し固定する技術を開発し、ユキノシタ科ユキノシタ属、ベンケイソウ科イワベンケイ属、ツリフネソウ科ツリフネソウ属など、ヒマラヤで多様化した植物群の細胞学的特徴を明らかにしていった。この現地で前処理・固定する方法は「若林法」として現在も適用されている(図4)。
 金沢大学(後に東北大学)の鈴木三男教授 (1947〜) は、多くの共同研究者とともに、材解剖学的手法を用いてヒマラヤ産木本植物の内部形態の多様性を明らかにした。また、東北大学(後に岐阜大学、横浜国立大学)の菊池多賀夫教授 (1939〜)は、生態学的手法を用いて、環境と植物群落との関係を解析した。
 ヒマラヤ高山帯には多様な植物が生育するが、その中でも特徴的なものにセイタカダイオウ Rheum nobile (タデ科)がある(図5)。セイタカダイオウは、比較的小型の植物が多い高山帯で例外的に大きくなる植物で、花をつけた花茎の高さは1mから1.5 mにも達する。また、大きさだけではなく、花茎の下部から上部にかけて、白い半透明の葉(苞葉)に包まれた異様な姿を示し、遠くからみると巨大なろうそくが立っているようにも見える。小型の植物が多い高山帯で、なぜこのような巨大な植物が生育できるのか、どのような光合成特性を持っているのか、解剖学的、発生学的特性はどのようなものか、様々な角度から解析が行われた。この調査の過程では、発電機を現地に持ち込み、測定機器を動かすなど、これま
 近年、植物系統分類学の分野では、遺伝子の本体であるDNAを調べ、植物の類縁関係を明らかにする分子系統学的手法が発達してきた。DNAの塩基配列を調べ、比較することにより、種間または同種の地域集団間の類縁関係を推定することができるようになってきた。この研究に用いる材料は、生の葉をシリカゲルなどで乾燥させるだけで準備できることから、ヒマラヤ産の種についても比較的容易に解析に用いることができる。これまでにベンケイソウ科マンネングサ亜科、ツリフネソウ科ツリフネソウ属、キク科トウヒレン属などで成果が上がっている。

これからのヒマラヤ研究
 以上、東京大学を中心とする50年にわたるヒマラヤ植物調査の歴史を概観した。日本の植物の起源を探ることを目的として始められたヒマラヤ植物研究も、その主たる対象を高山植物に移し、研究手法も記載分類学的手法に加え、より解析的手法も用いられるようになってきた。特に、近年の分子遺伝学的手法の発達により、遺伝子本体であるDNAの変異を調べることができるようになってきたことは、強力な解析ツールを手に入れたようなものである。
 生物多様性にはいろいろなレベルがある。遺伝子であるDNAの多様性を示す「遺伝子多様性」、「種」を単位とした「種多様性」、生物が集まって存在する群集の多様性を示す「生態的多様性」などがある。その中で、最も基本的な生物多様性を示すのが「種多様性」である。「種多様性」とは、ある地域にどのような種が存在しているかを示すものである。日本やヨーロッパのように、植物がよく調べられ、どのような種がどこに分布するのかが分かっているような地域では「種多様性」はかなり判明しているが、アフリカや東南アジア、南アメリカなど、まだ「種多様性」がよく分かっていない地域も広く残されている。実はヒマラヤ地域もまだ「種多様性」がよく分かっていない地域のひとつとされている。現在、"Flora of Nepal(「ネパール植物誌」)"発刊の準備が進められ、2011年に最初の第3巻が出版される予定であるが、そのような生物相を明らかにするインベントリー調査は今後も積極的に進めていく必要がある。
 一方、"Flora of Nepal" のようなインベントリー調査による成果は、ある地域にどのような植物が存在するかといった情報は与えてくれるものの、実際に植物が現地でどのような生活をしているのか、どのように生長し、花を咲かせ、実をつけるのかといった植物の生活に関する情報はあまり与えてくれない。生まれてから死んでゆくまでの生活環の中で、ヒマラヤの植物が厳しい環境にどのように適応して生きているのかを明らかにすることは、植物の進化を考える上で大変興味深いものがある。
 さらに、染色体やDNAといった遺伝子を扱った解析も進め、近縁種間や地域集団間の「遺伝的多様性」を明らかにし、ヒマラヤで多様化した分類群の起源や分布の拡大・縮小に関して具体的データをもとに議論ができるようになってきた。今後はさまざまな分類群に対して解析を進めることにより、ヒマラヤを舞台とした植物の進化と発展について明らかにすることができると考えられる。



特別展
ヒマラヤ・ホットスポット
−東京大学ヒマラヤ植物調査50周年
       会   期:平成22年12月18日(土)〜平成23年2月27日(日)
       休 館 日:月曜日(ただし1/10は開館)、12/27〜1/4、
              1/11、1/15・16、2/25・26
       開館時間:10:00−17:00(ただし入館は16:30まで)
       会   場:東京大学総合研究博物館1階展示室


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図1 1963年のヒマラヤ調査隊。後列左に立っているのが
黒澤幸子、後列右が金井弘夫、前列左から二人目が
原 寛、その右が冨樫 誠、前列右端が村田 源。


図2 日本から持ち込んだジープを駈り、植物採集をする。
高枝切りをもつ金井弘夫(右)と、抱えきれないほどの
採集品を持つ冨樫 誠(左)。


図3 山のように積み上げた標本の中で作業をする
村田 源(手前)と冨樫 誠(奥)。


図4 染色体観察用のサンプルを採取する天野 誠(左図)。
右図はサンプル採取のための道具を収めた箱。


図5 セイタカダイオウ Rheum nobile(タデ科)。東ネパール・ジャルジャレヒマールにて(大森雄治氏撮影)。


図6 半透明の葉(苞葉)を取り除いたセイタカダイオウ。苞葉を取り除かなかった場合との花の発生の違いを調べている。


図7 セイタカダイオウの光合成能力を調べる実験。