東京大学総合研究博物館 The University Museum, The University of Tokyo
東京大学 The University of Tokyo
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ウロボロス開館10周年記念号

展示活動

田賀井 篤平 (本館名誉教授/鉱物学)

総合研究博物館における公開展示活動は、主として「常設展示」と「特別展示」、および「巡回展示」として展開されている。学内における研究・教育のあり方やその成果を社会に対して示すことは、大学博物館の重要な任務であり、開かれた大学を象徴する活動である。
「特別展示」とは、大学における学問から得られた新しい知見を提示し、新しい仮説を実証し、新しい研究領域を開拓する場である。いわば、「実験展示」の場といえる。即ち、学内で行なわれている研究の成果ばかりでなく、仮説や理論が導き出される道筋を、その研究の基盤となる学術標本と共に提示してみせることは、学術研究のダイナミックな側面に直截的に光を当てることになる。このような展示は大学博物館においてのみ可能であろう。大学には、様々な領域に多数の研究者が存在する。大学博物館が、大学に存在する多彩な研究者の知識を活用して、学術標本に秘められた新しい研究領域を開拓・推進する能力を有している点において、他の博物館の追随を許さない。研究者と来館者が学術標本を中心に据えて、様々な切り口で接触し議論をかわすことができる場が、大学博物館における「特別展示」である。
一方、学内で遂行されている研究や今までになされた研究の成果を、何時でも見られる情報環境が整えられた場が、大学博物館の「常設展示」である。常設展示では、学内に蓄積されている学術標本が中心的な役割を担う。その目的は、1)学内に蓄積された貴重な学術標本を展示してみせる。このような展示を積極的に行なうことによって、学内に眠る学術標本を発掘し、それらの保存や修復にも大きな貢献が期待できる。2)近年、ともす
れば学問が還元性を志向しがちであるが、学問の原点であるモノに即した教育・研究の重要性を再認識させる。モノに接することができる環境が大学博物館に確保される。3)学問の進行過程で生み出され、放置され廃棄されてしまう「物品」の中で歴史的価値の高いモノを、学問における歴史的「文化財」として認識し、正当な位置付けを与える。大学を舞台として展開された学術活動の記憶を蓄積・保存し、学問の形成過程をたどれる環境を恒常的に保持し、そこから新たな学問の開拓への契機をつくるのが大学博物館の「常設展示」である。
また、新たな試みとして2003 年から「巡回展示」を行なっている。当館での展示は、全国の方々に「見に来てもらう」という姿勢であるが、実際の来館者は東京および近郊の人々が圧倒的に多い。巡回展示は、「見てもらうために展示が出て行く」という積極的で能動的な姿勢を示すものである。この「巡回展示」は、開催希望を公募して、開催時にはコンテンツと展示デザインの両面において総合研究博物館のプロデュースで行なうものである。巡回展示の与えたインパクトは非常に大きく、当館の認知度が全国規模で高まったこと、当館の展示の独自性と高レベルを喧伝できたこと、東京大学の社会貢献・地域貢献に対する積極的な姿勢が評価されたなどが挙げられる。
さて、以上に述べた一般論に加えて、私の手がけた展示の中でもっとも印象的で大学博物館にふさわしいと思っている展示である「石の記憶――ヒロシマ・ナガサキ」展と、博物館の展示活動の場が飛躍的に広がった全国巡回展示について、展示企画から実行への経過を記してみたい。
「石の記憶――ヒロシマ・ナガサキ」展は突然の広島護国神社宮司の訪問がきっかけであった。それは私が博物館に着任して間もない時で、広島護国神社の関係者が「狛犬の頭部」を見るために博物館を訪問するので対応するように命ぜられて、「狛犬の頭部」って何だと戸惑ったことを覚えている。渡邉武男先生が広島・長崎で収集した被爆標本が収蔵されていることは伝え聞いていたが、「狛犬の頭部」は初耳であった。とにかく収蔵庫に出かけてみると、収蔵庫の一角に渡邉武男被爆標本と黒マジックで書かれた引き出しが5 段あり、棚の上には木製の標本箱があって、その中に汚らしい布にくるまれた「狛犬の頭部」があった。これが特別展のきっかけになるとは当時夢にも思わなかった。
その時、護国神社の話を聞いて、「狛犬の頭部」がいかなるものであるかを知ったのである。これがきっかけとなって渡邉武男先生の被爆調査自体について調べてみようと思った。まず、博物館に収蔵されている被爆標本を調べてみることにした。同時に調査記録である渡邉先生のフィールドノートの所在を探し始めた。フィールドノートは秋田大学に寄贈され、附属鉱業博物館に収蔵されていた。早速、秋田に出かけ、362 冊のフィールドノートの中から1945、1946と表紙に記された2冊の原爆調査のフィールドノートを借り出して東京に戻り、ノートの記録を読み始めた。フィールドノートの記録は詳細で衝撃的であった。また、標本の整理とリスト作りの作業も並行して行なっていたが、標本棚の奥の方に表面に何の記述もない封筒に無造作に入れられた写真やネガ、文書類が見つかった。写真やネガは調査時のものであり、文書は調査団に関連したものであった。標本とノートと写真を頭の中で組み立て始めた。標本に記された番号、ラベルの記載、番号が振られてノートに記述されたメモ、写真撮影の記録、時系列に並べることが可能なネガコンタクト。調査の概要がおぼろげながら把握できたのである。しかし、多くの不明な点が次々に生じてくる。聞いたことのない地名、建物名、神社・寺、記念碑等々。広島、長崎の戦災誌を購入して調べたり、現地調査を行なう一方、広島平和記念館・長崎原爆資料館に問い合わせも行なった。その結果、被爆後の復旧過程で地名は変わり、神社や寺は移転し、過去の記憶は次々に消し去られていることがわかった。
その中で、最も頭を悩ませたのが「狛犬の頭部」であった。狛犬頭部は分析の結果、安山岩であり、広島から提供された「広島招魂社寄付物品一覧」で失われた狛犬は花崗岩であることと照らし合わせて、「狛犬の頭部」は広島護国神社から失われた狛犬ではない可能性が高い。広島では建造物に花崗岩が多用されており、長崎では安山岩が多く用いられているので、「狛犬の頭部」も長崎かもしれない。長崎で渡邉先生が調査した神社仏閣は5 カ所であるが、狛犬頭部表面が熱線で溶融するような近距離にあるのは浦上天主堂、山王神社、護国神社である。数回の現地調査や聞き取り調査でも解決できなかった問題が、あっけなく身近にあった資料で解けたのである。標本とノートと写真が立体的に組み上がってきた最終段階で、浦上天主堂入り口のアーチの両側にある柱飾りが「狛犬の頭部」であり、実際は狛犬ではなく獅子頭であることがわかった。旧浦上天主堂は有名な建築物であり、戦前に多くの写真が残されているに違いないと考えて、八方手を尽くして入り口の写真を収集した。探せば出てくるもので、獅子頭が完全に揃っている明治時期の写真から、全て欠落している天主堂取り壊し直前の写真まで、集めることができた。
この段階にきて、渡邉先生が被爆被害調査をいかに行なったか、その渡邉先生の調査に潜む謎について私たちがどのような調査研究を行なったかを博物館の特別展示として明らかにすることを決心したのである。大学で行なわれた研究の成果を展示という形で公開することが大学博物館の公開活動であるとすれば、最も相応しい展示であろうと考えた。展示のタイトルを決めることも大切な作業であり、「石の記憶」に「ヒロシマ・ナガサキ」を付け加えることで渡邉先生の被爆調査の特別展示をなう状況が整ったのである。
全国巡回展示は「ニュートリノ」展が最初であった。小柴昌俊先生がノーベル物理学賞を受賞した記念特別展示が博物館で行なわれたが、その時に、この展示は巡回展示として成立するのではないかと考えた。もともと博物館のメンバーの中で巡回展示の可能性について雑談したことがあった。しかし、巡回展示を実現させるには乗り越えなければならない障害が多いことも事実である。まず、巡回展示向きか否かという展示の内容、巡回展示キットの制作費用、実行時の負担という博物館側の問題点がある。さらに、キット貸し出しは無料としたものの運搬費などの負担もあって受け入れるところがあるのかという大きな問題がある。幸いにノーベル賞受賞記念展示に大学本部から臨時の展示費用の支援があったために、その一部を巡回展示キットの制作に使用できたこと、また小柴先生のキャラクターもあって素粒子物理学が身近に感じられるテーマであること、教員の負担は自分が頑張ればよいのであることから、受け入れ側を探すことが最大の課題となった。これも幸いなことに、普段から交流のある糸魚川市フォッサマグナミュージアムに話を持ちかけたところ、糸魚川市と交渉して実現の方向に走り出した。
第1 回目の「ニュートリノ」巡回展示には、「ニュートリノ」特別展示のメンバーが総動員された。現地を下見して会場に合わせて展示を設計した。柔軟性のあるパネルの設計、展示物の選択、自立照明設計など、また設営の手順、現場での変更の対応などなど考えなければならないことは山ほどあった。糸魚川で得たノウハウがそれ以降の巡回展示に大きく役立っている。現在は2 つめの巡回展示が巡回中であるが、1 回目の苦労が生かされて、設営撤去も流れ作業のように行なわれている。糸魚川が実現したところで、共同通信に依頼して東京大学総合研究博物館が「ニュートリノ」巡回展示を企画して全国巡回会場を募集しているとの記事を全国配信してもらった。その反響は凄まじかった。翌日からファックスやメールでの問い合わせが殺到した。しかし、現実には費用の伴うことであり、実現したのは一部であるが、関心の高さは印象に残っている。実現はしなかったが、ある静岡県の高校から体育館で数日ではあるが巡回展示を希望する旨の問い合わせがあった。趣旨からいって是非とも実現したい企画であったが、費用の点で断念したのが心残りである。糸魚川の後は富山県上市町、大分市、青森市、東京都文京区、羽島市、京都府木津町、明石市と巡回し、現在は東京都文京区立第八中学校に地域貢献事業の一環として貸し出しを行なっている。
巡回展示の効果は大きかった。まず、東京大学総合研究博物館の知名度を上げて活動を評価してもらったこと、人脈のネットワークが全国的に拡がったこと、特に博物館関係者以外に拡がったことが大きい。負担は大きかったが、頑張った甲斐があったと思う。
「ニュートリノ」展の後に、巡回展示第2 弾として「石の記憶――ヒロシマ・ナガサキ」展を企画した。「ニュートリノ」展と「石の記憶」展は対照的なテーマであるが、ある意味で東京大学が行なう巡回展示のテーマとして相応しい。ちょうど大学法人化の余波で財政的に厳しいなか、大学本部はじめ関係者の協力で巡回展示キットの制作が実現した。「石の記憶」特別展示の時から巡回展示に対する希望が寄せられていた関係で、和歌山市立博物館で第1 回目を行なった。ところが、昨今の地方財政の逼迫と文化予算の削減によって運搬費確保に困難が生じた。しかし、ある運送業者の方からの善意でこれが解決され、その意気と行動力に感銘を受けた。その後、運搬費用が不要になったことから、巡回展示は急速に実現に動き出し、青森県立郷土館、長崎原爆資料館、秋田大学鉱業博物館、文京区アカデミーと立て続けに行なわれている。「石の記憶」展は永続的なテーマであり、長い期間にわたって巡回すべき展示であると思っている。博物館が巡回展示を今後どのように展開するか、大きな課題であろう。

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巡回展:石の記憶(青森県立郷土館)