東京大学総合研究博物館 The University Museum, The University of Tokyo
東京大学 The University of Tokyo
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ウロボロス開館10周年記念号

総合研究博物館ができる

大場 秀章 (本館名誉教授/植物分類学)

総合研究博物館の誕生に、当事者のひとりとして関わることができたのはとても幸運なことであった。総合研究資料館から総合研究博物館への改革については、理念、必要性、経緯などが同僚だった西野嘉章先生によって分析・解説され、関連事項が網羅された年表とともに出版されている(西野嘉章『大学博物館――理念と実践と将来と』、東京大学出版会、1996 年)。私にこれに追加できることは何もない。そこで、日本での博物学や東京大学の博物館に関わる個人的な感想を書いたので、ご笑覧いただければ幸いである。
博物学はビッグ・サイエンス
その研究推進に巨費を必要とする科学をビッグ・サイエンスというが、日本で認知されていないビッグ・サイエンスに博物学、すなわち自然史研究がある。博物学がビッグ・サイエンスであることは欧米ではよく知られていることだ。単年度限りの巨額の予算だけではすまない超ロングスパンでの投資、研究施設であり標本・関連図書などを収蔵する建物である博物館の維持管理のための経費、必要な人材の確保に関わる人件費等々に要する経費は膨大である。研究者も、展示などを通じての博物知の普及など、博物学への国家の投資に報いる努力も行なってきた。こうした努力は、博物学やその研究の場である博物館の役割への期待を高め、他の多くのビッグ・サイエンスにありがちな税金の無駄遣い感を大いに薄めている。それが博物研究にビッグ・サイエンスとして、他に例をみない100 年以上にわたる継続を許容している背景をなしているともいえよう。
日本の博物学
日本が学問の導入を決めた19世紀後半は、「総合的」な博物学から「特定の事象についての研究」をする専門分野が多数誕生し、大学における研究でも中心はこうした新興の学問に移りつつあった。それでも東京大学が創設された1877 年前後の時代は、欧米の諸大学においても博物学そのものが研究の中心的課題としての位置を与えられていた。博物学が東京大学での研究の中心に据えられることになったのは、欧米の大学を模したこと に加え、日本最初の官立大学として、日本の博物について所掌していることの重要性への認識があったからであろう。
だが、設立後9年が経過した1886年に東京大学が帝国大学と改称されて後、先に述べた専門分野の研究が大学での研究に取り入れられ、研究の中心が次第に博物学から細分化された専門分野に移っていく。こうした流れのなかで博物学自体がひとつの単元的な研究と見做され、予算・人員・スペ−スなどの面で他の細分化された単元的研究と同列の扱いを受けることになった。博物学の研究拠点であった列品館(室)などの施設が新興分野との力関係により消滅を余儀なくされたことや、機能の低迷化などによって形骸化したことも、博物学の弱体化を加速した。博物学がビッグ・サイエンスであるとする認識が、一度たりとも日本で生まれなかったのは当然である。
東京大学研究資料館
私は1973年から77年までの4年7ヶ月の間総合研究資料館に勤務した。1970年に東北大学理学附属植物園に助手として就職して以来、植物分類学を中心とした研究を行なってきた。分類学こそは博物学の中心的研究分野といってよく、その研究には歴史的コレクションも含めた膨大な標本、年代を問わずおよそ書かれた文献すべてがレファレンスとして欠かせない性格をもち、その研究の場が博物館と呼ばれる研究施設である。1981年に私は再び総合研究資料館に勤務することになった。5年後の1986年は資料館が創設されてから20 年の節目にも当たっていた。また、当時の資料館には改革に情熱を傾ける赤澤威先生らがいた。青柳正規先生や速見格先生など、館外にも資料館を支援してくださる先生方が多数おられた。
今振り返ってみると、大学には博物館あるいはミュージムが必要であるという機運が80 年代後半から90 年代前半の東京大学に萌芽しつつあったのだと思われてならない。資料館についても、関係者によるネアンデルタール人やクントウル・ワシ遺跡での黄金の冠などの発見、またX線を用いた最先端研究にミイラなどの収蔵標本が利用されたことなどが学内外で話題になり、世間の目が注がれる状況が生まれていた。また展示でも「東京大学本郷キャンパスの百年」展などが全学的な関心を引いていた。
当時は、70年代以降先端研究教育に向けて邁進してきた東京大学が、研究教育の場として改めて大学を問い直す時期にあったといえ、博物館の必要性もその流れのなかで萌芽してきたものと私には思われた。こうした機運に先立つ動きとして資料館を博物館に改革するという試みが資料館側にはあった。改革に向けた動きは稲垣榮三館長時代に設置された将来計画委員会に端を発しているが、その委員会やその構想案を受けた資料館で具体的な動きを生むには至らなかった。転換に向けた最初の試みは養老孟司館長によって1991 年に全学的な委員会として設置された資料問題懇談会が最初であろう。東京大学として学術資料をどう収集・保存していくかを検討する委員会だった。画期的な委員会ではあったが、学内にある学術資料を集成した『東京大学が収蔵する学術資料の概要』を纏めただけで、それをどのように活用するかまでは検討できなかった。現在に存続するこの委員会は、当初、資料館の博物館への転換の足がかりをえる場として目論まれたといえるが、結果として資料館という枠組みを超える構想を思考し、提案するには至らなかった。
ただ一度のチャンスか
文化・芸術にも深い造詣をお持ちの吉川弘之先生が1993年に総長に就任され、大学に博物館を設置する機運がにわかに高まった。石井紫郎先生をはじめとする諸先生がミュージアムの必要性や私たちの考え方に耳を傾け、適切な助言をしてくださった。青柳正規館長の尽力により1994 年に総長のもとに設けられた懇談会が、大学にはユニヴァーシティ・ミュージアムが必要であるとの提言を纏めてくださった。学術審議会でも問題を取り上げる気運を盛り上げてくださったのである。こうした動きがひとつの流れとなり、旧国立大学に大学博物館が設置される道が開かれた。その最初としてわが資料館は1996 年に博物館と改組されることになった。
ここで指摘しておきたいのは、総合研究資料館とは別に大学博物館を新設するということを当時の大学での関係者のほとんどが考えていなかったことである。その背景には30 年にも及ぶ総合研究資料館の活動の評価があろう。この総合研究資料館の30 年に及ぶ諸活動・成果は、設立された総合研究博物館にとって基本をなす財産であるとの認識が一致していたからこその判断ではなかったろうか。こうした判断は資料館の博物館化にとも なって導入されたデジタル・ミュージアムの位置づけと評価にもさっそく役立ったように思われる。資料館時代に培ってきた歴史性が、通奏低音のように総合研究博物館の諸活動に揺るぎのない安定感と一貫性を与えていることを今さらのように感じる。
この間、国の機構のひとつとして新たな組織をつくることがいかにたいへんなことか、身をもって体験することになった。理論武装の必要性はいうまでもないが、文部省と大蔵省の担当官に向けての資料作り、折衝に向けた論点整理、改組に向けた概算要求書類の作成などは昼夜のない作業だったことを思い出す。当時の資料館事務主任の故中川孝雄さん、文部省の担当者であった金田正男事務官の奮闘も忘れられない。
かくして1996年5 月に東京大学の博物館として総合研究博物館が誕生した。4月1 日とならなかったのはこの年、国会での予算案の承認が遅れたためである。現状の総合研究博物館は、東京大学における博物学というビッグ・サイエンスの場としてはまだ不十分な点もある。活動にふさわしい人材、その場と予算の確保は容易ならざることであろうが、関係者のひとりとして寸分でも力になることができれば嬉しい。

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