東京大学総合研究博物館 The University Museum, The University of Tokyo
東京大学 The University of Tokyo
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ごあいさつ
西野 嘉章

 漆黒の暗闇のなかに独り浮かぶ一点の火.あるいは軍神マルスの宿る星.「火星」と言われたとき,多くの人の思い描くイメージは,あるときは抽象的,またあるときは神話的,いずれにしても漠然としたものでしかあり得ないというのが,通り相場かもしれません.しかし,現実の姿は,そうした朧気な想念を一気に覆すものなのです.
 「火星」は,アメリカ中西部や南米の砂漠を彷彿とさせる赤銅色の大地そのものであり,そこに急峻な渓谷や巨大な砂丘の広がるさまは,たしかに,無味乾燥のように思われはしても,実に生々しく,「火星」なることばの響きが醸し出す神話的アウラなど,たちどころに雲散霧消しかねない呈のものです.そればかりではありません.「火星」に関する科学解析が進み,その実相に関する情報も飛躍的に増大してきたことで,知的好奇心を擽るような,ロマン溢れる「火星」の実像がおぼろげに見え始めているのです.
 現代は,まさに太陽系の大航海時代にあります.人類は無人探査機を操り,太陽系を構成する様々な天体の調査をおこなっています.その過程で得られたデータは,すでに膨大な量に上っており,それらを最先端技術をもって解析し,新たな知見を得ようとする努力が続けられています.そうした地道な研究から明らかになりつつある「火星」像は,意外なことに,地球とよく似た歴史を有する天体というものでした.地球と比較する上でもっとも適格な天体,それが「火星」だったのです.「火星」について調べることが,ほかでもない,地球について知見を深めることに通じるというわけです.人類とはなにか,地球とはなにか,そして生命とはいったい何なのか.火星探査はそうした基底的な疑問と不可分です.そのため,天文学や惑星科学にとどまらず,物理学や生物学,さらには文学や哲学,社会学,芸術学にまで,大きなインパクトをもたらす可能性を秘めているのです.
 これと似たことを,東京大学の御雇外国人教師エドワード・シルヴェスター・モースもまた,今から百年ほど前に述べています.モースは動物学者としてよく知られていますが,科学者としての広汎に亘る関心のひとつに望遠鏡を用いた天体研究があり,「火星」の表面に見いだされる模様について記述を残しています.モースの感化を受けて来日したローウェルは,その模様を見て,火星人が作った運河に相違ないと主張しました.当時の科学者の多くは荒唐無稽な説としてそれを一蹴しましたが,モースは違いました.天文学や生物学,さらには哲学や文明史など幅広い見地に立って,自由な発想に基づいて観察結果を冷静に解釈すべきだ,と著書のなかで述べているからです.
 これは現在においてもなお有効な指摘と言うべきかもしれません.モノの見方には,科学のそれだけでなく,歴史や文学など,様々な観点や立場があります.そうであるからこそ,人類は今も火星探査を進めて止まないのです.「火星」の位置づけが見えてきた.そうしたなかで,人類の未来にとって有意な知を得ようとするなら,独り専門研究の隘路にそれを求めるのでなく,様々な分野の,様々な観点を統合的に組織し,俯瞰的な視野に立って,それを得るべく努力を重ねねばならないというわけです.それは,たしかに,容易なことではありません.が,多くの人が集まり,多くの視点からモノを眺めることのできる場すなわち,大学博物館の展示は,そうした「統合」を一部なりと可能にしてくれる機会なのではないでしょうか.
本展は,現在検討の進められている火星探査プロジェクトの概略と,それに関連した高度な研究成果を披瀝するための場であるに止まりません.来場された一般の方々と,この計画に携わる専門研究者を有機的につなぐことのできるよう,創意工夫がなされているからです.展覧会の進行と火星を巡る議論がどのような深化を遂げるのか,そこに本展の狙いがあるのです.
 今,日本の惑星探査は順調な進捗状況にあります.「はやぶさ」が小惑星イトカワから無事に帰還しましたし,「かぐや」は月科学で大きな成功を収めました.「あかつき」も先日無事に打ち上げられ,金星への長い旅路に就いています.こうした時期に,火星探査という巨大プロジェクトを題材に,新たな知の探求方法を提示する機会に恵まれましたことを,わたしたちは大きな喜びと受け止めています.本展を開催するにあたり,宇宙科学研究所/宇宙航空研究開発機構から全面的なご協力を賜りました.また,会津大学,アメリカ航空宇宙局,アリゾナ大学,NHKエンタープライズ,キーコム株式会社,国立天文台,株式会社シマブンコーポレーション,新日本製鐵株式会社,千葉工業大学,古河電池株式会社など,国内外の関係諸機関ならびに企業・個人より,多大なご支援とご協力を頂きました.ここに記して御礼を申し上げる次第です.

(本館館長、博物館工学、美術史学)




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