東京大学総合研究博物館 The University Museum, The University of Tokyo
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18世紀に活躍したスウェーデンの博物学者リンネ(Carl Linnaeus)は、神が創った自然のすべてを登録しようと考えた、といわれている。リンネは自然の登録化を、自然の体系化とし、その基本的な考えを1735年にSystema Naturae(『自然の体系』)という著作にまとめて出版した。これはリンネの処女作であり、このときリンネは28歳だった。リンネの構想は多くの学者の支持をえることになり、動物も植物も、そして鉱物も種を基準に、自然の体系化が進んだ。
「Systema Naturae ー標本は語る」展を企画して 大場秀章

   酸素のように、あまりにもありふれたものの存在はつい忘れがちである。私たちの暮らしも多様な自然があってこそ成り立っているのだが、大方の人はそのことを意識することもなく自然の重要さを忘れている。
  だが、人間がいま以上に自然と直接に関係して暮らしていた時代は、ときには牙をむき出しにする自然を畏怖するだけでなく、その姿やしくみなどにも関心が払われていた。哲学者もそのことを論じ、宗教も自然とのあり様を探った。
  いま私たちは自然を英語のnatureの意味で用いることが多い。この語はラテン語のnaturaからくる。これは、「生まれる」という意味のnascorから派生した語である。もとは「出生」を意味したと思われる。naturaに「自然」という意味を与えたのが誰でいつ頃のことなのか私には解らない。一方、自然の語も今日のものとは異なるものではなかったかと思う。然の字は肉と犬と火が組み合わさってできており、「犬の肉を焼く」という意味である。卜占に犬の生肉が多く用いられ、天神を祀るときにはそれを焼いたのである。双方の語義を辿るとき、自然もnatureの語にも、人間が勝手にコントロールしえない「天性」が意識されていたことが解る。このことは多かれ少なかれ、ほとんどの宗教は自然を神が創ったものとしていることにも通じよう。
  人間は誕生のときから自然に依存し、またはそれと闘いながら生きてきたのだし、生存を確かなものにするには自然についての知識の蓄積が必要でもあったろう。自然を構成物に分解して、それに名称を与えることで知識の共有が進んだ。ヨーロッパではヘレニズム期ともなれば教育を通じて知識は広がり、また深められていった。テオフラストスの『植物誌』などは、このような状況を手にとるように伝えている。
  時代が下るとともに生活に利用される自然物も増加する一方で、自然物とその知識も増加した。その結果、同名異物や異名同物などが多数派生して、知識は混乱した。薬用植物でのこうした混乱は死にもつながる。中世も末期に近づくにつれ自然は知のカオスに埋もれ本来の姿が見失われる状況に陥ったのである。こうした状況に新しい光を投げたのは、ルネサンスである。そのモットーが自然に帰ることであったのはこのような背景があったことが大きい。
  18世紀に活躍したスウェーデンの博物学者リンネ(Carl Linnaeus、リンネウス、リネウス、リネとも記す)は、あたかも役場の戸籍係のように、神が創った自然のすべてを登録しようと考えた、といわれている。登録するには、登録の方法、しくみなどが明確でなければならない。それは人間がアプリオリに決めればよいことであるが、ある程度は登録の対象である自然がどのようなものかを知っていなくてはうまくはいかないことだ。
  リンネは自然を登録するために、自然を「種」(species)に分け、それを登録上の単位とした。リンネは自然は多数の種により構成されているとし、その種を神が創ったと考えた。さらに、人間社会が、血縁関係を兄弟とか家族、親戚、遠戚、市民、国民などに層別化するように、種の階層化が試みられた。類似した種は同じ属に置かれる。類似する属は同じ科に、科はorderと呼ぶグループに、orderは綱(class)に、というように入れ子式に階層化されていく。例えば、カタバミ(Oxalis corniculata)は類似種とともにカタバミ属(Oxalis)に分類され、この属は24綱のひとつである10本の雄しべをもつ Decandria綱の中の5本の雌しべをもつorderであるPentagyniaに分類される、というようにである。これによってカタバミという種は、属の階級ではカタバミ属、orderではPentagynia、綱ではDecandriaという分類学上の名称(これを分類群名[taxon]という)が与えられ、リンネのいう登録が完了する。
  リンネは自然の登録化を、自然の体系化とし、その基本的な考えと実際を1735年にSystema Naturae(『自然の体系』)という著作にまとめて出版した。これはリンネの処女作であり、このときリンネは28歳だった。リンネの構想は多くの学者の支持をえることになり、動物も植物も、そして鉱物も種を基準に、自然の体系化が進んだ。
  ヒトという種に分類される私たちではあるが、よく観察すればみな少しずつ違いがある。野生の植物・動物も同様で、種を記載するとき正確を期すため、記載した個体を標本として残す。記載に問題があることが判明したときは、記載のもとになった標本を再度分析し、再定義ができる。研究者は標本を読むことを通じ、それがどの種に分類されるのかを決める。標本は自然そして自然の体系を知るうえで重要な手がかりとなるものであり、いまや標本なしには自然の科学的理解は不可能である。さらに未知の種を見出すために世界中から標本が集められた。研究中の標本が既知のどの種にも該当しないと判ったとき、それは新種として発表される。研究を通じて標本は自然の体系の主役となった。標本を集める重要性が博物館の誕生と発展をも促したのである。
  標本を読むのに最も大切な道具は、鋭い感覚と理性をそなえた人間の目である。ただ、植物、動物、そして鉱物をみる目にはちがいがあり、見方は多様である。時代が下るとともに様々な機器が標本の分析に援用され、種についての理解の幅が広がり、かつ深まりをみせている。新種の発見を通じて「自然の体系」はより完璧なものに近づいていく。このことは私たちの自然の体系的理解が未だ不十分な状況にあることを物語っている。
  自然の理解にはさまざまな方法がありえるだろう。体系化はその優れた方法のひとつであり、この方法によって蓄積されてきた知識もぼう大である。リンネが自然の体系化を意図してから270年になろうとしている。集積された知識を共有し、活用することが21世紀共生社会の実現には欠かせないだろう。その研究成果の公開こそは博物館の社会的使命ではないだろうか。  (本館特任研究員 植物分類学)













写真=奥村浩司(すべて)
Systema Naturae ― 鉱物界 ― 田賀井篤平

リンネの三界の中の鉱物界
 リンネはこの世のあらゆる自然物は神の創造物であると考えて、自然物の分類を試み、自然物全てを鉱物界・植物界・動物界の三界に分類した。リンネは生命体以外の全てのものは鉱物界に属するとして三界を対等な位置に置いたが、現在、我々が考えている鉱物界は、リンネの鉱物界に比すると遥かに狭い世界しか考えていない。しかし、生命体を構成する元素が鉱物界から供給された歴史を考慮すると、リンネの分類は自然史における卓越した感覚を有していたと言えるであろう。なぜなら、地球を構成している鉱物界は植物界と動物界を育み支えてきたし、現在も支えているからである。
 鉱物界の起源はどこにあるのであろう。約150億年前のビッグバンによって宇宙の全てが始まり、形成された星間ガス雲から「星」が誕生する。大型の星の中心では核融合反応が進行して炭素、ネオン、ケイ素、鉄などの元素が合成される。やがて星の中心部は不安定になり、大爆発(超新星爆発)の衝撃で合成された重い元素とともに物質を宇宙空間にまき散らす。宇宙空間にばらまかれた元素は再び集積して、また新たな星の誕生へと続く。太陽の原材料もこのようにして作り出された元素である。
 太陽系を作り出した星雲の中では、H やN、Heなどの気体分子の他に、Mg、Si、Al、Ca、Naなどはケイ酸塩鉱物と呼ばれる鉱物の微粒子として存在している。これこそ鉱物界の起源である。地球も太陽の誕生とともに誕生し、星間ガスの中で微粒子は互いに付着して成長を続け、ついには惑星にまで成長する。その間に地殻・マントル・中心核という層状構造が形成された。地球を構成している酸素、ケイ素、鉄、マグネシウムなど、また地球に誕生した生命体の主成分である酸素、窒素、炭素、水素などは、すべて100億年の間に繰り返されてきた星の一生の産物である。生物は地球の表層部である鉱物界―「地殻」―と大気と水に取り囲まれた環境下で誕生し進化を遂げていった。地殻を構成する主要な元素はケイ素、アルミニウム、鉄、カルシウム、ナトリウム、カリウム、マグネシウムなどである。生命の生育環境を形作っている大気や水を鉱物界に入れることは出来ないが、植物も動物も鉱物界の一員である岩石(土壌を含む)の上でその影響を受けながら存在し、その進化も、大気や水や鉱物界で構成される環境の中で進行してきたのである。
 Systema Naturae展では、鉱物界における多様性を、鉱物の形成過程、鉱物の形、鉱物の色の多様性について考察した。

鉱床の形成の多様性
 人類にとって有用な元素は、微量であれば我々の周囲にある普通の岩石にも当たり前のように含まれている。しかし、地球の岩石の中には、人間にとって有用な元素が利用可能な程度に集まっていることがある。普通の岩石に比べて数十倍から数千倍も有用な元素が集まっている(濃集)特別な岩石を鉱石といい、その鉱石が工業的に採掘可能な規模で存在する所を鉱床と呼んでいる。私たちが鉱山で採掘しているのは、地球の表面の地殻と呼ばれている部分である。では、リンネの時代までに利用されていた、金、銀、銅、鉄、鉛、蒼鉛、錫、水銀、アンチモンの地殻内の存在質量比を見てみると、鉄が5%存在するほかはppm(ppmは1/ 10000%)の程度しか存在しない。ちなみに、地殻を構成している主要な鉱物はケイ酸塩鉱物で、その構成元素であるケイ素の存在質量比は27.7%、酸素は46.6 %である。鉄の存在量が多いのは、鉄がケイ酸塩鉱物の構成元素になっているからで、金属として採掘可能な鉄が多いわけではない。このように僅かしかない有用元素が、どうして採掘可能なほどに濃集するのであろうか。
 ある元素が濃集するためには、その元素がもともとあった場所から移動する必要がある。その元素を含む物質が地球の活動のなかで変化して移動可能になり、移動先での物理化学条件で選択的に固化して濃集したと考えられる。鉱床を成因で分類すると火成鉱床、熱水鉱床、堆積鉱床となる。火成鉱床と熱水鉱床は、代表的な移動・濃集の形態である地球のマグマ活動に伴って形成された鉱床である。火成鉱床はマグマから有用元素を多く含んだ鉱物が選択的に結晶化して濃集した鉱床であり、熱水鉱床はマグマによって生じた熱水に有用元素が溶け込んで移動して晶出したことによって形成される鉱床である。堆積鉱床は、鉱石を含む岩石が風化や浸食によって場所を移動する間に、機械的に選択され堆積したり、化学的に溶解・析出して有用元素が濃集して形成される鉱床である。

鉱物の形の多様性
 鉱物は約4000種が知られているが、多くの鉱物はそれぞれ特有の形と色を示す。ここでは鉱物の形の多様性を考えてみる。異なった鉱物種が同じ形態を示すこともある一方、一つの鉱物種が複数の形態を示すこともある。多くの鉱物が示す形態を調べてみると、そこには「対称性」という法則性がある。鉱物は天然に産する一定の化学組成をもつ固体の無機物質である。鉱物の結晶は、鉱物を構成する元素の原子が化学組成に示した割合で互に結合し規則正しく配列した構造をもっていることによって特徴づけられる。原子特有の結合の仕方は、多かれ少なかれすべての原子について存在する。その結果、結晶中の原子の配列には、ある程度の規則性が生れ、そこに対称性が生じるようになる。鉱物の示す形態の対称性はその鉱物固有の形態である。ただし、形態の多様性は、鉱物の成長時の物理的・化学的条件の差によるとされるが、どのような物理的・化学的条件のもとでどのような形態が出現するかは、ほとんど解明されていない。
鉱物の色の多様性
 鉱物の発色の機構は、多くの場合、光と鉱物中の電子との相互作用で生じると考えられる。物質の発色は、多くの場合、電子と光の相互作用で説明されるが、例としてルビーについてその特徴的な赤色の発色を考察してみる。ルビーはコランダム(Al2 O3)に約1%程度のクロムを含んだものであるが、3価のクロムイオンが3価のアルミニウムイオンを置き換えていると考えられる。クロム元素は原子番号が24であり、原子核の周辺に24個の電子を持っている。この中で、18個の電子は対を作って安定しており、6個の電子が不対電子である。クロムの3価のイオンは、この中の3個が他の原子との結合に用いられているために、結局3個の不対電子が残されている。この3個の不対電子が発色に関与する。光がルビーに入射すると、不対電子は基底状態から励起されてエネルギーが高い状態に移る。この励起に伴って、対応するエネルギーの光が吸収される。即ち、その結果、緑色と紫色が強く吸収され、透過して来る色は赤色と僅かな青色となる。また、励起状態から基底状態に戻るときに強い赤色の蛍光を発する。これがルビーの輝かしい赤色の原因である。
 また、同じクロムイオンが発色の原因となっているエメラルドでは、3価のクロムイオンは緑柱石(Be3Al2Si6O18)の3価のアルミニウムイオンを置換している。この場合、何故クロムイオンは赤色に発色しないのであろうか。その原因はコランダムと緑柱石の結晶構造の違いに帰着することが出来る。緑柱石の結晶中ではエネルギーがコランダムより基底状態に対して高い。その結果、吸収される光のエネルギーは黄橙色に対応し、同時に紫色が吸収される。ルビーに比べてより低いエネルギーの光が吸収されることから赤色の透過は減少し、また紫色と黄橙色の間のエネルギーを持つ薄い青色を含む緑色の光が透過してくることから、エメラルドは緑色に発色すると考えられる。
 その他、例えば、銅イオン(1価と2価)や鉄イオン(2価と3価)のように、複数のイオン状態を持つ元素が発色に係わる場合は、色の多様性は一層増すことになる。例えば、サファイアはAl2 O3であるが、不純物としてチタンと鉄を含む。チタンと鉄では電子が2つの原子の間を移動し、このような電子の取りうるエネルギー準位が発色に関与し、サファイアの青色の原因になっていると考えられる。 (本館特任研究員 鉱物学)




図1. アエンデ(Allende)隕石. 1969年2月8日、MexicoのAllende村に落下した隕石で、太陽系の原材料であると考えられている炭素質コンドライト。このような物質が集積して地球が形成されていった。





図2. 黄鉄鉱に見られる3つの形態多様性
軟体動物の多様性佐々木猛智

 分類学研究者の国内最大の組織である日本分類学会連合の集計によれば、2002年12 月の段階で、我が国からは少なくとも8万9千種の生物が知られている。生物は現在では、細菌界(Bacteria)、原生生物界(Protista)、植物界(Plantae)、菌類界 (Fungi)、動物界(Animalia)の5つの大きなグループに分けられているが、このうち動物界には6万種以上が知られ、全生物の7割弱を占める。しかも、動物の場合、まだ名前のつけられていない未記載の種は最大で12万種以上に達するであろうと推定されている。
  動物は現在33前後の「門(Phylum)」に分類されている。このうち最も種数の多いグループは、節足動物門であり、日本産の既知種は40223種である。そのうち昆虫が特に多く、30747種を占めている。その次に大きなグループが軟体動物門であり8045種が記載されている。この順位は、世界中で行われている同様の推計でも変わりがない。
  軟体動物は4つの「多様性」によって特徴づけられる。第一の特徴は「種の多様性」であり、種数が多いことは上述の通りである。既知種が多いだけでなく、まだ発見されていないと予想される種も多い。日本産の種では1200種以上が未記載であると推定されている。未記載種が多い理由は、貝類が主に海中に生息することと、小型の種が多いことによる。海産の生物は陸上生物よりも採集の機会が限られ、小型種は調査から漏れやすいからである。
  第二の特徴は、「ボディープランの多様性」である。殻は無いが解剖学的には貝類と共通の部分を持つ無板類(溝腹類と尾腔類)、8枚の殻を持つ多板類、オウムガイやアンモナイトのように本来は殻を持っていたものがイカやタコのように殻を失う方向に進化した頭足類、筒状の細長い殻を持つ掘足類、体の左右に二枚の殻を持つ二枚貝類、螺旋状に巻く殻を持つ腹足類、など様々なグループが見られる(図1)。軟体動物は少なくとも8つ以上の大きなグループに分類されているが、その根拠はこの体の構造の複雑さにある。
  第三の特徴は「生息環境の多様性」である。軟体動物の教科書には、「貝類は地球上のあらゆる環境で成功している」と大袈裟な説明がなされているが、それは嘘ではない。特に、海洋では軟体動物は最も多様化に成功した生物である。水深6000m以深の超深海にも、海底から熱水の噴き出す特殊な環境にも貝類は生息し、海中を漂う浮遊性の種もある。そのため、海は貝の王国であるといっても過言ではない。一方、陸上では種数は比較的限られているが、高山、砂漠の周辺、洞窟の奥部に至るまで、様々な環境に貝類が生息している。貝類は空を飛ぶことができないため、空中には存在していないが、それ以外の環境には最も幅広く適応した動物である。
  第四の特徴は「地球史を通じた多様性」である。カンブリア紀前期に多細胞動物の多様化が始まって以来、軟体動物は化石として全ての地質時代から知られている。日本古生物学会が集計した日本におけるタイプ標本数(小笠原, 2004: 化石75:24-29)では、新生代の化石貝類だけで少なくとも4300種以上が記録されている。この数は他の化石生物の種数を4倍以上も上回っており、化石記録における動物の多様性は軟体動物の独壇場である。
  現在、東京大学総合研究博物館は国内有数の貴重な軟体動物のコレクションを所蔵している。特に、古生物のコレクションが充実しており、アジア産の化石軟体動物の重要なタイプ標本の多くが総合研究博物館に登録されている。その他にもタイプ標本を含む頭足類のコレクションや、深海性貝類、歴史的に価値のある戦前の貝類コレクションなど、様々なコレクションが収蔵されている。今後も学術的に価値の高い標本を蓄積し、生物多様性の解明に貢献することは総合研究博物館の重要な任務である。(本館助手 動物分類学・古生物学)




図1. 軟体動物の代表例

日本産魚類の研究と東京大学の魚類コレクションの構築 坂本一男

 5億年以上の歴史をもつ魚類は、長い地史学的時間を通じて著しく分化し、地球上のあらゆる水圏に進出した。このため、形態・生態など様々な面で著しい多様性を示しており、古来より多くの研究者の注目を集めてきた。 1758年に出版された、動物命名法の起点であるリンネLinnaeus の『自然の体系』第10版では、魚類は 動物界の6綱のうちの一つ、魚綱 Pisces にまとめられている。そして、51属378種の魚類は5目に分類されている。ただし、現在のエイ類・サメ類などに相当する一部の魚類5属36種は両生綱の1目、Nantes目にまとめられているので、魚類(全56属418種)は6目に分類されていることになる。
  リンネ (1758) 以降、今日まで夥しい数の種が記載され、現生種の総数は約 25000にのぼる。これは全脊椎動物の50%以上に相当する。これらの魚類は、現在、57目(481科約4258属)に分類されている。現在も毎年のように数多くの新種が報告されており、最終的には現生種は28500種になると推定されている。  『魚類の多様性』の展示では、これまでに明らかにされた魚類の多様性を最近の系統分類学的研究の成果に基づいて目および亜目のレベルで紹介している。  ここでは、魚類の多様性研究にとって重要である、日本産魚類の分類学的研究の簡単な歴史と、これらの研究に多大な貢献をしてきた東京大学の魚類コレクションの構築について紹介する。
日本産魚類の分類学研究小史
  日本産魚類についての分類学的研究は、19世紀まではヨーロッパの研究者を中心に、そして20世紀に入ると主にアメリカ人の研究者により行われた。これらの中で、最もまとまった形で日本の魚類をヨーロッパに紹介したのはテミンクとシュレ−ゲルTemminck and Schlegel (1843-1850) の『Fauna Japonica(日本動物誌)』が最初で、約360種が報告された。  明治になって日本人による日本の魚類の研究が始まった。1884年、内村鑑三は640種の魚類の学名を記載した『日本魚類目録』(未発表)を作製し、1897年には、石川千代松と松浦歡一郎が『帝国博物館天産部魚類標本目録』に1075種を記録した。  20世紀に入るとスタンフォード大学のジョルダンJordan とその弟子達によって日本産魚類の分類学的研究が精力的に行われ、その結果、1900-10年代におよそ700種もの新種が日本から報告された。  この頃ようやく日本にも魚類学を専攻する研究者が現れた。東京帝国大学を1904年に卒業した田中茂穂(後述)である。田中はジョルダン、スナイダーSnyderとともに1913年、『A Catalogue of the Fishes of Japan(日本産魚類目録)』を出版し、1236種を日本産として報告した。  その後、1938年に岡田弥一郎・松原喜代松は『日本産魚類検索』で1946種、さらに松原は1955年に出版した『魚類の形態と検索』で2714種、1984年に益田一他は『日本産魚類大図鑑』で 3275種、そして2000年、中坊徹次は『日本産魚類検索』で3863種をそれぞれ日本産魚類として報告している。しかし、松浦啓一と瀬能宏(2004)によれば、日本およびその周辺水域には、未記載種(新種)や未記録種といった未知種が数多く分布することが確認されており(400種以上が日本の魚類分類研究者によって研究中である)、最終的には日本の魚類は4400種を超えるという。
東京大学の魚類コレクションの構築と研究者  
  動物部門は、東京大学において、動物の主として分類学に使用された標本を所蔵している。標本の中では魚類が大きな比重を占めており、総数は約30万点(約6万ロット)に及ぶ。これらの標本の中には300種以上の模式標本が含まれる。  現在、部門の魚類コレクションは、京都大学・北海道大学・高知大学のものとともに日本における大学の主要な魚類コレクションを構成している。その歴史の長さと模式標本の多さを揚げるまでもなく、その質・量ともに、部門の標本の分類学的価値についてはいうまでもない。たとえば、昭和初期までに採集された多数の日本産の淡水魚類標本は、環境破壊が今日ほど進んでいなかった時代の自然分布を知る手がかりを与えてくれるなど、環境指標や評価の面で重要な情報源ともなっている。  この魚類コレクションは主に次の研究者により構築された。
<田中茂穂(1878-1974)>
 魚類標本の大部分は、東京帝国大学理科大学動物学科を1904年に卒業した田中茂穂が明治後半・大正・昭和初期に精力的に収集したものである。その後、彼の後継者である冨山一郎・阿部宗明・富永義昭(後述)らの研究標本が加わった。   田中は東京大学において、日本産魚類の分類を中心に夥しい数の論文・論説・総説などを発表した。代表的な論文の一つは1913年にジョルダンとスナイダー とともに『東京帝国大学理科大学紀要33巻1号』に発表した『日本産魚類目録(英文)』(先述)である。田中は、この論文で1236種の魚類を日本産として報告した。これは日本の魚類相の全貌を初めて明らかにしたもので、日本の魚類学史上、特記すべき出来事であった。1911年から1930年まで48巻発行した『日本産魚類図説(英文・和文)』(41新種を含む全287種)や学位論文『日本産魚類の分布に関する研究(英文)』も代表的な業績である。彼はその生涯に170種あまりの日本産魚類の新種を発表している。このように日本の魚類学の基礎を築きあげた田中は「日本魚類学の父」といわれる。
<冨山一郎(1906-1981)>  
 1931年に理学部動物学科を卒業した冨山一郎は、ハゼ類の分類学的研究でよく知られている。冨山は卒業論文、大学院で田中茂穂に師事し、東京大学理学部附属臨海実験所や九州大学において、ハゼ類を中心に魚類の分類学的研究を行った。動物部門は、学位論文『Gobiidae of Japan(日本のハゼ科)』(1936)の研究標本を中心に多数のハゼ類の標本を保管している。冨山は富永義昭(後述)を大学院で指導したほか、1949年以来宮内庁侍従職御用掛を務め、昭和天皇の御研究のお相手をつとめられ、皇太子時代の今上天皇の一連のハゼ科魚類の御研究の助言者、相談相手でもあった。
<阿部宗明(1911-1996)>  
 1935年理学部動物学科卒業の阿部宗明は、学部、大学院を通じて冨山一郎とともに田中茂穂の指導を受けた。阿部は、理学部大学院、本館、水産庁東海区 水産研究所、おさかな普及センター資料館などにおいて、長年にわたり魚類の分類学的研究を行った。フグ類とトビウオ類の分類に関する研究が有名であるが、その研究の対象は大変幅広かった。部門は、フグ類を中心に阿部の研究標本を多数保管している。
<富永義昭(1936-1994)>
 1959年に理学部動物学科を卒業した富永義昭は、大学院で冨山一郎に師事し、大学院・理学部助手時代を通じてハタンポ科魚類の系統分類学的研究を行った。 その後、理学部講師や本館客員研究員として、スズキ亜目魚類の系統分類学的研究を行った。1980年代からは筆者ら共同研究者とともに、鰾の後部の形態に関する研究など、スズキ亜目魚類を中心に広く真骨魚類の比較形態学的研究を開始した。部門は、富永とその共同研究者の研究標本を多数保管している。
(本館研究事業協力者/おさかな普及センター資料館長/魚類分類学)





図1. 田中茂穂が記載したジョルダンギンザメ Chimaera jordani Tanaka, 1905 [日本産魚類図説3(1911) より]



図2. 冨山一郎が記載したキラキラハゼ.
Mars auropunctatus Tomiyama, 1955
[魚類学雑誌 4(1955) より]


図3. 阿部宗明が記載したシロサバフグ Lagocephalus wheeleri Abe, Tabeta and Kitahama, 1984
[魚 (34) (1984) より]


図4. 富永義昭が記載したコンニャクハダカゲンゲ Melanostigma orientale Tominaga, 1971
[魚類学雑誌 18 (1971) より]
哺乳類の「配置」高槻成紀
 
  Systema Naturae展における哺乳類展示コーナーの中央に立つと、100点ほどの哺乳類の頭骨が自分の方を見ているという配置になっている。イルカ、サル、オットセイなど一部のものは全身骨格だが、それらも中央の一点を向いて並べられている。そこに立てばあたかも哺乳類の「原型」がそこにあり、そこからさまざまなグループが分化していったかの如きである。ただしこれは展示のデザインのひとつの工夫であり、生物学的な意味でそうである訳ではもちろんない。哺乳類の系統分類は現在進行形で大きく揺れ動いており、その系統関係に総合的な決着がつくのはしばらく先のことになるだろう。またたとえそれが一応の完成段階に近づいたとしても、きわめて限られた化石によって過去の種群との関係を辿るのは、微さな手がかりを頼りに、巨きなアモルファスな余地を残しながら推論せざるをえない難儀な作業であることに違いはない。そのことを認めた上で、実際に生物の系統を正しく描くとすれば、どういう形の「樹」が描けるのだろうか。もちろん、今回の展示のように平面である必要はない。書物に描かれる系統樹は木の葉の葉脈のように描かれるが、これは紙の面上に表現するからで、実際は樹のように立体的に枝分かれするはずである。系統樹は木の「上方」に向かって時間が経つものとして描かれるから、枝分かれが「上向き」になるが、種分化は環境の変化によってあるグループにおいて一気に進むことがあるから、実際の関係はむしろ血管系にみられる房状の塊りのようなものであろう。展示の中央に立つとそのような想像を刺激される。
  リンネが目指した分類は自然界の鉱物や動植物を抽出し、秩序に従って整理し、それぞれを適切な場所に「収める」ことであった。分類学はその秩序性を解明すべく発展した。それはいわば自然というカオスの中から特定のグループを抜き出す作業であったともいえよう。そして近縁な種を世界各地のさまざまな環境から集めて並べ直すのである。
 その意味では、生態学はまったく違うアプローチをとる。生態学者は例えばタイの熱帯林という具体的な場所で起きる現象を考えようとする。そこには豊富な花が咲き、実がみのる。花の蜜を吸いにくるハチやチョウや鳥やコウモリなどがおり、果実を食べに来る鳥や哺乳類がいる。花冠のサイズや形態は昆虫の口吻とみごとな対応をもつ。果実は色や匂い、形などによって利用する動物に制約を強いる。その結実状態は利用する動物の生死にも影響を与え、それが種子散布などにも波及効果をおよぼす。このような現象は博物学の時代からも記載があったが、現代生態学は例えば個体群のダイナミズムという文脈においてこれら植物と動物の関係をとらえなおそうとするし、進化学とむすびついた生態学は動物、植物のフィットネスにおいて両者がどういう役割を果たしているかを解明しようとする。ある動物はさらに別の種との関係をもっており、ある動物がいなくなること、あるいは少なくなることが、別の動物の生活に影響をおよぼすといったことを調べる。このような「関係性」そのものを明らかにするには、実験室での生物学は非力である。ましてその種をその場所から抜き出して、別の場所のものと比較することは、ここでは意味をもたない。もちろん、「関係性」が場所によっていかに違うかを調べることはすぐれて生態学的ではあるが。
  そのように考えると、生態学はせっかくリンネが始めた「自然から種を抜き出す」ことを否定して、またもとのカオスに戻しているかのように思われるかもしれない。しかしそうではない。分類学が最も密接な関係をもつ進化という生物現象は、きわめて具体的な特定の場所における生物同士のつながりを通して達成されたものである。そうであるからこそ、それはそのままの自然の中で調べてこそ正しい進化の産物としての生物が理解できるのである。このような意味で、自然は決してカオスではなく、そこには秩序がある。それは「系」と呼んでもよい。生態学が明らかにしようとすることのひとつは、その系における、例えば哺乳類の位置や役割、つまり「配置」である。これはリンネのいう「体系」とは意味が違うが、まちがいなくsystemaのひとつである。その意味で生態学はリンネを超えてアリストテレスまで戻って自然を見ようとしていると言えるかもしれない。自然から「抜き出されて」並べられた標本群はそのようなことも考えさせる。
 それにしても、である。展示したのはわずか100種ほどであって、4000種ほどいるとされる哺乳類の3%にも及ばない。しかも哺乳類は生物全体からすれば種数の少ない小所帯である。それでもケースに入れて配列されたひとつひとつの標本をまぢかにすると、哺乳類がいかに多様な形態を獲得してきたかに驚かずにはいられない。
  これらの哺乳類は一方で、絶滅しやすい種群でもある。「ネズミのように小さい」という表現があるが、ネズミは動物界全体を見まわせば、巨大といってよいほど大きい。この体が大きいということは哺乳類の大きな特徴のひとつである。そのことは行動圏が広く、寿命が長く、成熟するのに時間がかかることを意味する。その上、一部の哺乳類は肉や毛皮や角などが人間に利用される。これらのことはすべて絶滅へのマイナスの要因になる。今回の展示標本にも絶滅の危機に瀕したものがいくつかある。
  21世紀は自然との共生の世紀であるという言い方もされるが、哺乳類はこういう点で、その象徴的な存在でもある。生物の多様性を考え、人類の重要な課題である自然との共生を考えてもらいたいというのも、この展示を通じて期待したことのひとつである。
         (本館助教授 動物生態学)
         
         
         
 

図.哺乳類展示コーナーの中央に立つとすべての哺乳類標本が自分のほうを見ている。
Systema Naturae ― 植物界 ―清水晶子

  リンネの三界においては、植物界には、陸上植物(コケ植物、シダ植物、裸子植物、被子植物)だけでなく、藻類、菌類(カビ、キノコのなかま)、リンネの時代には知られていなかった細菌類など、動物以外の生物すべてがふくまれることになろうが、今回はスペースの関係で、被子植物についておしば標本の展示を行った。
  分類学者の仕事は種を区別して正しく記載することと、記載された種を近縁なものとそうでないものに分けて、体系づけることである。前者の作業の基礎として、二名法という方法を確立したリンネの功績は大きい。リンネの時代から比較すれば、現在知られる種の数も膨大なものになり、体系づけもより困難になっていった。
馴染みのうすいアジサイ科
  陸上植物は現在25万種以上におよび、そのうち被子植物は22万5千種にもなると見積もられている(地球全体の植物がまだすべて調査し終わっているわけではないので、正確な数は不明である)。被子植物の目や科を紹介するだけでも膨大な数の標本が必要になってしまう。そこで、今回はまずそのなかでアジサイ科をとりあげた。アジサイ科は、従来の分類体系では、広義のユキノシタ科の中に含められてきたが、分類学者によっては、木本中心のアジサイ科を独立の科として 扱うという見解をとってきた。近年の分子系統学的な研究の結果はこの見解を支持するもので、木本中心のアジサイ科と草本中心のユキノシタ科(狭義)は系統的には縁遠いものであることがわかってきた。そのため、これらを別の科として扱うことが広く認められるようになった。このふたつの科の植物は、北半球にひろく分布しているが、日本にはとくに多様な種がみとめられる。これらを日本の標本を通じて紹介した。
適応放散と収斂
  分類群の認識は主として形態形質によって行われる。詳細な観察にもとづいて種の区別点を明らかにする一方で、分類体系を構築するためには、その分類群の近縁性を示す類似した形質が必要になる。環境への適応の結果、自然界に生きる生物のかたちも生き方も多様である反面、同じような環境に生きている生物は、環境への適応の結果、同じような形態をもつ場合がしばしば見られ、このことが分類体系の構築を困難にする。前者−適応放散−の例として、温帯の低地から、ヒマラヤ高山帯にひろく分布し、さまざまな適応的な形態を示すキク科トウヒレン属と、後者−収斂−の例として、水中生活に適応して似たような葉の形態を示すが、系統的には縁遠い水生植物の例を示した。
  キク科トウヒレン属のセクションでは、ヒマラヤ植物研究のために収集された標本を、水生植物のセクションでは、世界各地の標本を展示した。
  最後に  直接標本を展示することで、自然史標本の実際を紹介しようと試みた。標本にも、それぞれの顔があって、標本をつくった人それぞれの性格や植物に対する思いがおのずと現れるものである。また標本には、貼付された同定票や、ノート、メモ書きなどが付随しており、研究の歴史を物語る貴重な資料となる。ラベルなどを通じて、その標本がどのような経緯をたどってそのハーバリウム(標本室)にやってきたかもうかがい知ることができる。標本をながめながら、このような標本のたどってきた歴史に思いを馳せるのも、標本を見る楽しみのひとつである。 (本館植物部門 植物分類学)




図. Bidens beckii Torrey [Megalodonta beckii (Torrey) Greene] (キク科) ハーバード大学から寄贈された標本. 北アメリカマサチューセッツ州で、1894年8月29日に、George Golding Kennedy により採集された。カナダ南部から合衆国北部にかけて分布する水生植物で、晩夏から初秋に花を水面上に出して咲かせる。花序、花、果実は、ウィンターコスモスなど、Bidens属の他種とよく似ているが、 Bidens beckii 1種のみが沈水性である。
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