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    プロト・ハッスーナ土器(嬰児の壺棺)。イラク、サラサート遺跡出土(1964年)、約8300年前。残存高39.9cm、最大径42.7cm(3ThII.P1)

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    外面に残る織布の圧痕

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B56
新石器時代の壺
メソポタミア原始農村の土器

かつて考古学の泰斗V. G. チャイルドは、農耕の開始を契機とした人類の社会経済的革新、「新石器革命」の一要素に土器の発明をあげた。日本列島では農耕導入以前の土器が古くから知られるものの、世界に先駆けて食料生産経済が営まれた西アジアについては、1950年代まで広く受け入れられた見方であった。

1956年、文明の起源の解明を掲げて西アジアの遺跡発掘に乗り出した東京大学は、新石器革命で誕生した原始農村に狙いを定め、イラク、サラサート遺跡を調査地に選んだ。当時、メソポタミア最古の農村址とされていたのは近くに所在するハッスーナ遺跡であった。村が築かれた頃に使われていた土器は、切り藁を混ぜ込んだ粗い粘土で分厚く形づくられ、鈍黄色に焼き上げられた大型品であり、頸がなく直線的に出っ張った胴の下半が屈曲する、印象的な形の壺が多数出土していた。

展示品はサラサートから発掘された上部を欠く壺で、嬰児の棺に転用されていた。ハッスーナ最下層の壺と共通の特徴を有し、同型式と判断される。こうした土器の発見によって、サラサートは狙い通りの原始農村址であることが証された。そして、ハッスーナの事例に頼らざるをえなかったメソポタミア原始農村の研究は、サラサートの豊かな情報を得て飛躍的に進んだ。今日、当該の時期はふつう「プロト・ハッスーナ期」と呼ばれるが、「サラサート期」とする提案もあったぐらいだ。

現在、西アジアにおける土器の発明は農耕の開始より数千年遅れる事実が判明しており、もはやこの壺も人類初の新石器革命を直接伝える遺物とは言いづらい。だが、原始農村を舞台に進んだ工芸の発展を物語る一品として、文明への歩みに連なるとの評価は不変だ。土器づくりそのものだけでなく、外面に残る織布の圧痕もまた往時の工芸活動を示す証拠である。紡織の始まりは痕跡の乏しさゆえ判然としないが、新石器革命の要素として土器づくりと並び称されていた技術革新である。文明への胎動は、この粗雑な壺から確かに聞こえてくる。 (小髙敬寛)

参考文献 References

深井晋司・堀内清治・松谷敏雄(編)(1970)『テル・サラサートⅡ 第二号丘の発掘 第三シーズン(1964年)』東京大学イラク・イラン遺跡調査団報告書11、東京大学東洋文化研究所。