遺跡の概要テル・コサック・シャマリ遺跡はアレッポから東へ約100km、ユーフラテス川の上流の東岸にあります。ここにダムを作る計画が持ち上がり遺跡が水没することになったため、東京大学の調査団が1994年から1997年まで緊急の学術調査をおこないました(団長:松谷俊雄、1997年より西秋良宏)。発掘によって紀元前6000年頃から3500年頃にかけてのムラの跡が幾層にも重なって見つかりました。特に興味深い発見は、ウバイド期の焼失建物(紀元前5000年頃)と後ウバイド期の土器焼き窯(同4300年頃)です。どちらも土器工房と考えられますが、構造は異なっています。ウバイド期の工房では土器焼き窯や土器製作室、保管庫が一体となっているのに対し、後ウバイド期にはそれぞれが独立した本格的工房が出現します。後ウバイド期とは西アジアに世界で初めて都市が出現するウルク期直前の時代です。日本で縄文時代の狩猟採集社会が続いていた頃、西アジアでは農耕社会がうまれ都市社会が誕生しました。都市文明成立に向けて社会が複雑になっていた過程を、土器工房の変化から読みとることができます。 【調査参加者】*団長もしくは研究代表者 **副団長
表1 テル・コサック・シャマリ遺跡年表 ウバイド期の生活テル・コサック・シャマリの遺跡は、ナハル・サリンという小さな川がユーフラテス川へ注ぎ込む合流点にあります。ユーフラテス川の両側は断崖ですが、ここならナハル・サリンが作る切り通 しを伝って渡ることができます。また、二つの川とその氾濫原、台地など様々な環境にある動植物や岩石を一手に利用できるという点でも、この遺跡の立地条件は大変優れています。ウバイド期の生活の基本は濃厚牧畜でした。オオムギやコムギを栽培し、ヤギ・ヒツジを飼っていました。ヤギ・ヒツジは肉として食べたほか、乳製品や羊毛をとるのにも利用していました。この傾向はウバイド期の後半以降に目立つようになります。今の村人と同じような生活がそのころ始まったわけです。少しですがウシやブタも飼っていました。また、ユーフラテス川の水鳥や魚も捕って食べていたことが、出土した骨の分析からわかりました。 人々の道具の代表は大量の彩文土器です。それには幾何学文、動物文などがあざやかに描かれました。ほかに穀物収穫用の鎌刃やその調理のための磨石、木材加工用の石斧、糸をつむぐ紡錘車、取引に使うハンコなども用いていました。材料のほとんどは地元でとれたものです。割れた石器もそのまま捨てるのではなく、適当な形に打ち割って道具にしていました。数少ない輸入品には、トルコ方面 で産出する黒曜石がありました。 ウバイド期の焼失建物A区と名付けた発掘区の第10層からは、火災にあった建物が見つかりました。住人は家財道具を取り出す間もなく焼け出されたようです。そのため各部屋の中には、実にさまざまな道具類が残されていました。それを分析してみると、この建物は土器作りに使われていたことがわかりました。 大きな部屋(10A01)には150、小さな部屋(10A03)には20個以上もの新品の土器がおかれていました。おそらく後で分配ないし販売するつもりだったようです。大きな部屋には窯が備え付けられていたほか、たくさんの土器製作具もおかれていました。土器を作るための道具は小さな部屋(10A02と10A05)からも見つかっています。また、他の部屋にはコムギやオオムギがたくさん保管されていました。土器工房だけではなく、穀物倉もついた建物だったわけです。コムギやオオムギは種類別 に仕分けして貯えられていました。 建物は型にはめて作った泥煉瓦を天日で乾かした後、それを積み上げて作られていました。日干し煉瓦の建物は農村部では今日でも作られ続けています。屋根は、ポプラ、ヤナギなどをわたして梁とし、そのすきまをタマリスクの小枝と泥で埋めて作られていました。これも現在の村人の家と同じ作り方です。 図5 A区10層 焼失建物
図6(左上)A区10層 焼失建物 図7(右上)同建物 Room
10A02 土器製作址
図8(左上)Room 10A03 炭化材 図9(右上)Room 10A06 コムギ種子炭化物出土状況 ウバイド期の土器作り焼失建物から見つかった土器工房によって、ウバイド期の土器作りについて様々さことがわかりました。粘土はユーフラテス川やナハル・サリン川から採ってきて、回転台の上で手づくねで整形されました。ロクロは知られていませんでした。土器の表面 は川原石やガゼルの角で削られた後、緑がかったクリーム色の化粧土がかけられました。 半月形をした土製の専用削り具も使われました。絵付けには、ヘマタイトやマンガンなどの鉱物を磨石や川原石製のパレットですりつぶして作った絵の具が使われました。赤と黒が基本の色です。土器は馬蹄形をした窯で焼かれました。窯は建物の中にも外にもありました。 できあがった土器は大きさや種類別に仕分けして倉庫に保管してありました。それらをよく見ると、形や模様など作りがそっくりなものが何組もあるのがわかります。おそらく、少人数の工人たちが作業に当たっていたのでしょう。 ウバイド期の土器工房の跡は焼失建物以外のところからも見つかっています。それらに共通 するのは、 工房の建築法が住居用の建物とかわらないこと、パン焼き窯へ穀物倉、幼児埋葬などふつうの生活に関わる遺構と一緒に見つかることです。工房と一般 住居がかならずしも分離していない様子は、後の時代(後ウバイド期)のものとは対照的です。 後ウバイド期の土器作りB区と名付けた南東部の発掘区では後ウバイド期の土器工房が見つかりました。二つの大きくて本格的な窯が備え付けられたものです。径も1.2m以上あり、大量 生産も可能だったと推定できます。 土器焼き窯の南側には土器製作室があり、そこには粘土を水ごしするための入れ物が置かれていました。その東には生乾きの土器を乾燥させるスペースがあり、そこからは窯に向かって煉瓦敷きの通 路が走っていました。窯入れのための通路だったようです。 この建物は明らかに土器製作専用のものです。ウバイド期の工房と違って、まわりに生活の痕跡はみられません。しかも一般 居住区とは離れたところに設けられていました。この頃には土器製作を職業とする専門家が出現していたと考えられます。 とはいえ、後ウバイド期の土器はウバイド期と比べ見栄えはしません。表面 の調整にもきめ細かさがなくなるし、美しい彩文が描かれることも減ります。質より量 に重点が置かれたように見えます。ロクロはやはりまだ知られていませんでした。土器作りの道具としては、腕輪のような形の削り具が考案されました。絵の具が必要なくなったため、顔料をつぶすパレットなどはほとんど使われていませんでした。
関連文献一覧このサイトは、東京大学総合研究博物館・西秋良宏研究室によって管理されています。(管理人:近藤康久)
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