東京大学総合研究博物館 The University Museum, The University of Tokyo
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東京大学総合研究博物館ニュース ウロボロスVolime22Number2



本館特別展示
『最古の石器とハンドアックス――デザインの始まり』展によせて

諏訪 元(本館・教授/自然人類学・古人類学)

はじめに
 今回の特別展は、エチオピアにおける長期研究の一環として、長年苦楽を共にしてきたエチオピア人研究者2名、ブルハニ・アスファオ博士とヨナス・ベィエネ博士と共に企画することができた。エチオピアの南部に位置するコンソという地域に、200万から80万年前の間の年代の化石と石器を豊富に産出する調査地がある。そこから出土した原研究標本の石器資料を、文字通り特別に展示している。本展示では、コンソの調査研究の石器資料が中心となっているが、それ以前と以後の時代の石器標本をも展示し、コンソの研究成果を位置づけしている。人類進化の時代背景としては、ホモ属の起源期前後から初期のホモ・サピエンスの時代までを網羅する、贅沢な展示を企画してみた。また、頭骨レプリカを用い、ホモ属の出現期ごろの250万年前から10万年前までの人類の系統進化を展示している。この系統樹展示は筆者の従来からの念願であった。年代順に空中に頭骨レプリカをぶら下げ、しかもそれぞれの種のおおよその身長に合わせる。来館者は、言うなれば、人類進化の空間を歩いて辿ってゆける。
 この特別展示にはまた、1980年代以来の調査研究の積み重ねが内在している。展示してある原研究標本を、目にし、手にするに至った背景と体験を、様々に思い出さずにはいられない。学術的なインスピレーションもあれば、フィールド調査の非日常的な場面であったり、様々な意味での苦悩や格闘であったりする。本稿では、そうしたことを思い起こしながら、展示の紹介をも兼ねて、「最古の石器」と、「最古のデザインされた石器」の発見と調査研究について、若干ずつ振り返ってみたい。

ゴナの石器と調査
 確固たる打製石器の最古級のものは「オルドワン」石器として知られている。従来から「礫器」とも呼ばれ、1950年代以来、タンザニアのオルドヴァイ渓谷などから知られていた。当時は、ようやく火山岩の年代測定が行われ始めた時代であり、オルドワン石器とその担い手と思われるホモ・ハビリスが180万から190万年前ごろまで遡ることが、初めて知られるようになった。世界を驚かせた、当時の最新成果であった。しかし、その後のエチオピアの古人類調査が進むと、オルドワン石器はさらに古いことが示唆された。しかし、それが250万から260万年前まで遡ることが定説化するのは、1990年代後半のことである。これは、エチオピア人研究者のソレシ・セマウ博士の、「ゴナ」という調査地の研究による。ゴナの石器は、間違いなく250万年前まで遡る最古の石器として1997年にNature誌に発表され、その後も追試の調査研究が継続している。
 今回の展示では、長年の友人でもあるセマウさんのご厚意により、ゴナの石器の研究標本を若干数展示借用することができた。そのセマウさんとは、アディスアベバのエチオピア国立博物館にて、ハダール(アファール猿人の化石「ルーシー」の産出地として知られる)の動物化石のキュラトリアルワークを、1984年に2か月の間一緒に行った、それが最初の出会いであった。そして、1987年に、セマウさんらがゴナの予備調査を行うこととなった。実は、1970年代末から1980年代にかけて、様々な理由からエチオピアの古人類調査はほとんど実施されなかった。そうした中、セマウさんの学位研究としてゴナの調査が改めて企画されることとなり、1987年に予備調査が行われた。ゴナの調査地は、アファール猿人化石(300万から340万年前年前)を多数産出するハダールの調査地の西に隣接する。1987年当時は相当な辺境の地、研究者が現地入りするのは10年ほどぶりであり、予備調査というよりは、予備調査の予備調査といった状況であった。その1週間ほどの調査に、私も参加させていただいた。
 この短期調査の体験から、私は多くを学んだことを覚えている。アフリカの広大な露頭調査の初めての体験であり、他の熟練者数名を見様見真似で観察し、化石の表面採取調査等の第一歩を覚えたのであった。アファールの調査としては、例外的に8月に行われた。例外的なのは、北半球なので夏季は特に暑いから、通常は避けるのである。先ずは、調査地に至るまでの労がある。車輪跡すらない荒れ地を4輪駆動車2台で入り込む。初心者の私にとっては、あまりに劇的であった。しょっちゅう車を止めては、シャベルとピックで土砂を撤去し、溝を埋め、車を進めてゆく。当時は体力に結構自身はあったのだが、あっという間にバテバテで、総勢8名のうち、すぐに最も使い物にならなくなったのが私であった。一日かけて、アファールの低地で唯一水が流れるアワッシュ川まで到達し、川辺でありながらやや高台の地にミニキャンプを設営する。テントは一部網状の小型ナイロンテントだが、暑くて夜もほとんど眠れない。それでも、日の出と共に、サーベー調査に出かける。水筒の水が枯渇しないように気遣いながら、化石層準を追って首尾よくはアファール猿人化石の新発見を目指す。アレマイユさんと言う、化石発見の達人が一人参加しており、私は彼の動向を参考に試行錯誤してみた。そうしている内に、なんと初めての人類化石(片)の発見に恵まれた(アファール猿人の上腕骨片)。その前後の経緯は克明に覚えている。一体何をどうすれば良いのか、試行錯誤で化石包含層を追い、小さな丘の上へと登って行った。そこには骨片の化石片がところどころ部分露出していた。その層が地表をなす面を、少しずつ観察して行くと、平べったい数センチの「ツルッ」とした骨面が1点、砂岩の中から顔を出していた。これはとの思いが頭をよぎり、その骨片を堆積層から持ち上げてみると、「ツルッ」とした面がアファール猿人の上腕骨の後面の一部とであることが分かった。確か、50メートルほど以上離れていたアレマイユさんを呼び、共に発見地点(層序が重要)を記録し、化石が人類化石であることをも再度確認した。この調査では、人類化石の発見はこの1点だけであったが、豊富に出土する動物化石の中から稀な人類化石を特定するといった、発見のこつを体験することができた。
 ハダールの化石調査と並行して、西に隣接するゴナのサーベー調査が実施された。ゴナはアワッシュ川の大きな支流の一つだが、雨季に大雨が降った直後以外は、枯れた砂川である。しかし我々が到着する前後に季節はずれのにわか雨が降り、ところどころに小さな水たまりが残っていた。私と、同等にバテバテの比較的慣れていない数人は、日が高くなると、ズボンを脱ぎ捨て、下着になり、水たまりにつかりならが休憩してしまった。そうしながらも、ゴナ川沿いの石器産出層準を見て回った(私はあとをついていっただけ)。ゴナの石器は、まぎれもなく古い地層に点々と突き刺さっていた。また、毎年の浸食により、相当数が自然と露出している。いずれも、極めて鋭利な剥片や石核であった。ゴナのオルドワン石器は、石材が良いためか、鋭利な、きれいな石器が多い。同じオルドワン石器でも、時代が古くなると、石と石を叩く技術水準が低くなり、剥片と石核の質の低下が予想されていた。例えば、「プレオルドワン」(オルドワンの前)の時代があったのでは、などの議論もあった。1987年の調査現場でも、あまりにきれいな石器が多いことに皆、驚いていたことを記憶している。後の更新世の時代の石器の混入ではないかとも慎重に検討されていた。セマウさんたちのその後の調査研究により、オルドワン石器が260万年前まで遡り、その製作者が原石の材料力学的な性質を理解しながら上手に石器を作っていたことが明らかとなった。

コンソの調査地と発見
 コンソの地を初めて訪れたのは、確か1989年の年末のことである。コンソは伝統農耕民とその地域(図1から図5)の名称であり、街道沿いの同名の行政町(村)でもある。当時は経済が停滞しており、アディスアベバから600キロほどのコンソでは物資も物流も限られていた。コンソに有望な古人類サイトがあるなどとは誰も想像していなかった。我々にとっては、さらに南のケニア国境近くのトゥルカナ湖やオモ川下流域の古人類サイトの調査に行くための経由地に過ぎなかった。当時のコンソ村は、しょっちゅう不通となる街道を適宜整備するための道路メンテキャンプがあり、簡易な宿と簡単な食堂などはあったものの、ガソリンスタンドはなく、我々は燃料を金属タンクに入れて4輪駆動車3台とトレーラを引いて移動していた。コンソのさらに南に行くと、いよいよ伝統遊牧民の地となり、携帯電話網もない当時、音信不通の辺境の地との印象が深まる。コンソはそうした、辺境へ向かう最後の中継地的な村であった。
 そうした時代のさなか、アスファオさんが長となり、エチオピア政府のプロジェクトとして、先史古人類学的に未踏の地を系統だってサーベーする調査が毎年少しずつ実施されていた。私もベイェネさんも参加し、その一員を務めさせていただいた。その一環として、コンソ村にキャンプし、周辺地域を調査することとなった。1991年の9月から10月のことである。そもそもコンソの調査地は、エチオピア地溝帯の最南端に位置し、地溝帯として沈降したのは、比較的新しい時代であり、あまり深く落ち込んでいない。従って、一見すると、比較的新しい堆積物か、それとも風化した基盤岩や火山岩の露頭しか見られない。街道沿いにあるいくつかの露頭も、そうしたものがほとんどである。1991年の系統だったサーベー調査では、コンソの北50キロほどにあるチャモ湖周辺の堆積層から順に見ていった。当時は精度の良い衛星写真がまだなかったので、50000分の1程度の空中写真を頼りに堆積層の露頭候補を一つ一つ踏査していった。化石や石器を全く目にしない日々が続くなか、ある日化石と石器に巡り合うことになる。化石は決して豊富でなかったが、100万年前より古いと確実に思われるイノシシの歯の破片などが含まれていた。瞬時これは素晴らしい新発見と皆気を良くした。特に、類似した堆積層の分布が広範にわたることが空中写真から一目瞭然であった。それから1週間ほどのうちに、街道からわずか数キロから5キロほどの所に、化石と石器が驚くほど豊富に出土する露頭があることを次々と確認することができた。また、動物化石から、150万年前級の古さを持つことが明らかであった。
 このコンソの調査地の発見については、今回出版した写真集「アシュール石器文化の草創―エチオピア、コンソ」にも記してあるが、大きな驚きであった(本館出版の研究報告にも記述しているhttp://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/Bulletin/no48/index.html)。これだけの豊富な化石と石器を産出する「遺跡」が、1960年代末以来、人類学者、古生物学者を含め多くの者が往来する、その目と鼻の先に人知れず眠っていたのである。現地の農民たちは、石器や化石に特段の興味を持っておらず、また、当時は畑そのものからは離れている場合が多かった。そこで、浸食と共に自然に流出している化石散布状態が、ほぼ手つかずのまま我々を待ち受けていた。そうした状態を、初めて科学者として見ることができたのは、衝撃的な体験であった。場所次第であるが、化石が特に多い地点では、化石や石器が所狭しと露出し、堆積層から「流れ出る」様子が残っていた。ルイス・リーキーが初めてオルドヴァイ渓谷を訪れた時など、果たしてこんな景観だったのかなどと、勝手に想像してみた次第である。こうした調査地の風景は、上記写真集に若干数掲載しているのでご覧いただければ幸いである。
 コンソのフィールド調査は、1993年から日本とエチオピア研究者の共同研究として、正式に調査許可を取得し、2003年までほぼ毎年継続した。その後は分析研究を進める傍ら、必要な確認調査を数度にわたり追加した。1990年代の調査では、言うなれば手つかずの調査地を初めて調査するとのことで、緊張感をもって系統だって化石と石器サイトと層序年代の調査を進めていった。特に気を使ったのは、層序が不明の場所では、化石や石器を採集しないことである。また、現地の農民が化石を拾わないように注意し、我々自身で採集地点と推定層序を、GPSのない時代に、空中写真の拡大プリントに、1点1点現場で記録した。一方、場所によっては、年代層序の確定が思いのほか大変だった。堆積層の露頭が細かく断層で割れていて、あるいは隔離された小露頭に分散していて、重要な石器産出地点について十分な理解に至るのに10年ほどの歳月を要した。
 最古のアシュール型石器の発見は、化石が少数しか出土しないKGA6という地点でなされた。あまりに荒々しいハンドアックス(もしくはプロトハンドアックス)、ぎりぎりそう呼んでよさそうな石器が若干数、浸食で洗い出されているのを先ずは発見した。当時は、年代はまだ確定していなかったが、170万年前程度よりも古い可能性があった。そこで、1997年と2003年に発掘調査を実施し、ハンドアックスなどの大型石器が175万年前近い層準から出土することを改めて確認した。また、より典型的なハンドアックスの最古の例の年代の特定が特に難航していたが、2012年に一定の結論を導くことができた。並行してベイェネさんが中心となり、石器形状の遺跡間比較と時代間比較を進めていた。これらの結果を統合し、2013年に米国科学アカデミー紀要の論文として発表することができた。この論文は、目下、一つの基準論文として機能しており、多くの研究者に参考にしていただいている。
 この石器分析研究に、従来は化石研究に従事していた私も参画させていただいた。ベイェネさんと意見交換し、彼の形状分析と解釈について内部討論し、数量評価の一端を担った。私にとっては極めて貴重な研究経験であり、ホモ属の進化全体について、多くの示唆を得ることができた。特に、比較研究を進めるにあたり、時代差の傾向が歴然と見えてきたのは、感動的であった。例えば、サイトごとに大方50以上の大型石器をずらっと並べて比較してゆく。そうして、サイト間の傾向と時代間の傾向をベイェネさんと確認する。確かに傾向が見えてくる。そうすると、たまに変に飛び出る石器が1点、2点と目に留まる。例えば160万年前の石器群に、「あれ」これは進歩的すぎるのでは、あるいは原始的すぎるのでは、そう思い悩む例があった。そこで標本番号を確認すると、実際には125万年前の石器であったり、175万年前の石器の置き場所がたまたま間違っていたことが判明する。比較評価を進めながら、そうした事例を数回体験し、我々の時代差判断が有効なものと確信していった。
 コンソのアシュール型石器の重要な点は、よその遺跡コレクションでは議論できない100万年前以前の時代変遷について、初めて明らかにしたことにある。しかも、「ハンドアックス」と「ピック」ではどうやら傾向が異なる。ハンドアックスはどんどん洗錬されて行くが、ピックはそうでもない。ピックは、堀具であったか、枝などを断ち切る時などに威力を発揮したと思われる。重量感のあるピックの機能は年代を通じてあまり変わらなかったのに対し、動物解体道具と思われる大型切断石器のハンドアックスは、時代と共に機能性が向上したようである。そのタイミングについても、今までの認識とは異なる事実が浮かび上がった。従来は、ハンドアックスなどのアシュール型石器は150万年前が最古で、ホモ・エレクトス(原人)が登場した後、しばらく時間が経ってから作られるようになったと思われていた。それが、我々とケニアのチームとで独自に、並行して175万年前ごろまで遡ることを突き止めたのである。今では、タンザニアからエチオピアのアファールまで、東アフリカの広域にわたり、アシュール型石器が170万年前までには展開していたと認識されている。このタイミングは、ハビリスなどの初期ホモからホモ・エレクトスへと移行した、まさにその時代に相当する。すなわち、生業活動の大きな変革と共に、形態的にホモ・エレクトスと認識できる人類が生じたことになる。
 コンソの最上層のハンドアックスもまた、予想外であった。この層準からは、手にすっぽりフィットするような、薄手で形の良いハンドアックスやクリーバーが出土する。こうした洗練されたアシュール型石器は、従来は50万から60万年前ぐらいに出現すると思われていた。コンソの研究により、洗練されたハンドアックスは古く、80万から90万年前まで遡ることが判明した。これもまた、大きな驚きであった。この洗練化もまた、原人から旧人段階の人類への移行と関連していた可能性が高い。この時代のアフリカの人類化石はまだほとんど明らかになっておらず、今後はこの時代の人類進化について見直しが進んで行くと思われる。
 本展示については、当初予定の12月24日までの会期を2018年1月28日(日)まで延長する。また、12月12日(火)からは、8点の石器をインターメディアテクに移設し、4月8日(日)まで展示する。並行して、2月11日(日)からは兵庫人と自然の博物館に本館のモバイル展として移設し、5月には早稲田大学会場にて同様にモバイル展開する予定である。

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図1 コンソ地域の見事な棚段農耕風景(1993年撮影).

図2 コンソ地域の典型的な丘の上の伝統村落
(1993年撮影).

図3 コンソの伝統村落の石垣と農民の子供たち
(1994年撮影).

図4 働き者のコンソの少女(1990年代中ごろ撮影).

図5 コンソ地域の、週一回の伝統的マーケットは近年も継承されている(2016年撮影).