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東京大学総合研究博物館ニュース ウロボロスVolime17Number4



研究紹介
「東京中央郵便局」再考

阿部聡子(特任研究員/近代建築史)

はじめに
 「東京中央郵便局」というモダニズム建築の出現は明治以降の日本の建築史上で最も重要な出来事の1つである。それは日本の建築界において先進的な役割を果した設計組織、逓信省経理局営繕課時代の吉田鉄郎(1894-1956)による傑作としてだけではなく、当時の現代建築として突出した存在感を持ち得るような幾つかの条件が整ったためだと考えられる。
 
まず東京中央郵便局の概要について整理すると、建築工事の竣工は1931(昭和6)年12月25日、東京駅前という帝都の玄関口に地上5階・総地下1階、延床面積36,479.11uの大規模なもので、当時耐震耐火上最も理想的とされた鉄骨鉄筋コンクリート造で建設された。中央郵便局という重要かつ特殊な機能を担い、最新鋭の機械設備を搭載したもので、地上3階までの床面積の多くは莫大な郵便物処理のための現業室が占め、そこでの迅速な作業を可能にするために高い階高と壁のない連続した空間を基本として計画された。それを実現したのは、6mスパンに配された柱と梁によって格子状に連結されたこの建物の主体構造であり、それ自体が当時最新の構造理論の実践であった。このように東京中央郵便局は、敷地、規模、機能、構造といった側面だけでも当時最高のインパクトを持ち得る条件を具えていたことがわかる。
 現在、東京中央郵便局跡地には保存部分がコラージュされた超高層JPタワーが建設され、東京中央郵便局のモダニズム建築としてのイメージは写真や言説などにのみ求めることになった。しかし、これまでは東京中央郵便局という機能の特殊性から、吉田鉄郎が実現した構造と意匠の統合によるモダニズムの美学の実体験は難しかったが、日本郵政と本館との産学協働プロジェクトであるインターメディアテクなどの建設により、新たな場と再考のきっかけを獲得したように思う。ここでは東京中央郵便局建設から当時の反応を中心に振り返り、いかにしてモダニズム建築のイメージとして定着したのか考えてみたい。

東京中央郵便局建設前夜
 東京中央郵便局の建設経緯については、『逓信協会雑誌』1933(昭和8)年11月号(逓信協会)での東京中央郵便局発表記事の中で吉田鉄郎自身が「大正十一年一月、仮庁舎焼失後、間もなく新庁舎の設計に着手されたが、翌年夏、設計の完成に近く、関東地方の大震災に遭遇して一頓挫を来し、一時設計を中止するの止むなきに到つた。予算を新たにして再び設計案を作り、昭和二年の暮、基礎工事を、同四年八月、庁舎主体工事に着手し、引き続いて種々の附帯設備工事を完了して十一月一日開局披露を行つた。顧れば設計開始以来十年以上の歳月を経過し、その間数度に亘る予算の削減があり、又時代の推移に伴つて、建築の平面及び様式は幾度となく変更を繰り返した。」(p.?116)と述べている。設計自体に関しては、『逓信協会雑誌』1927(昭和2)年1月号(逓信協会)の新たな予算決定報告記事に掲載された、実施案とは異なる意匠の模型写真(図1)と実施案のボリュームとに大きな変化はないことから、計画の内容自体はその時点で決定していたことが窺える。また建築学会による『鉄骨鉄筋 建築構造図集』(1933年)の掲載頁には大体主体設計の完成した時として「昭和3年3月」と記載があるのでこの頃には設計はほぼ完成していたと考えられる。吉田鉄郎は1922(大正11)年の計画開始当初から設計に関与していたことが知られているが、つまり短くとも6年もの歳月、東京中央郵便局設計に関わっていたことがわかる。1922(大正11)年といえば吉田はまだ、帝国大学を卒業し逓信省で建築家としてスタートしてわずか2年半、逓信省での最初期の仕事といえる京都七条郵便局でさえ竣工(1922年6月)をむかえる前であり、鉄骨鉄筋コンクリート構造での計画もはじめての経験であった。吉田鉄郎は最晩年の著作『スウェーデンの建築家』(彰国社、1957)において、「はじめのうちは主としてドイツの建築家から、強い影響をうけたが、いずれもあきたらず、次ぎから次ぎと心の旅をつづけた」と振り返っているが、まさに東京中央郵便局の設計の頃は、これまでの様々な建築の実例を手がかりに自分の表現を模索していた時期であったと考えられる。それまでの作品をみても、東京中央郵便局実施案のような、構造を素直にあらわした立面・大きな窓・白いタイル貼り仕上げといった意匠との共通点は見出しにくく、東京中央郵便局は吉田鉄郎の中でも特に革新的な意匠であったといえるだろう。吉田が「時代の推移に伴つて、建築の平面及び様式は幾度となく変更を繰り返した」と述べたように、新しい建築の意匠として現代に相応しい表現を追求する方向で設計が進められたことが窺える。

東京中央郵便局へのモダニストたちのまなざし
 
東京中央郵便局の建築は、1931(昭和6)年末の竣工直後から同時代のモダニストたちに非常に高い評価を受けていたことがよく知られている。しかし建物自体の修祓式は1933(昭和8)年10月30日であり、建築以外はその後も工事が継続し、開業は1933年11月であった。また、担当者である吉田鉄郎は、1931(昭和6)年5月27日に執り行われた定礎式に出席した後、同年7月から1932(昭和7)年7月まで約1年の海外出張に派遣されていたため、吉田自身による作品発表は、1932年11月号の『土木建築工事画報』(工事画報社)が最初で、設計趣旨の発表と考えられるものは『逓信協会雑誌』1933年11月号を待たなければならない。
 しかし当時の記録からは建築工事中の段階から既に注目されていたことが見て取れる。例えば『建築雑誌』1931(昭和6)年5月号の「時報」によると、その年の建築学会大会の建物見学会の見学地に選定され、4月26日に建築関係者213名が訪れている。同記事には「東京中央郵便局建築場(コンクリート打終り外装工事並室内工事進捗中)」とあるように、当時まだ外部の足場も外れていない段階であった。この見学会は、他に帝国議会議事堂や東京科学博物館などいずれも話題の大規模建築の現場を巡るもので、竣工前に見学できる貴重な機会であったためか、「見学申込は其の通知発送後数日にして満員を告げ」と報告されるなど、高い関心を集めていたことが窺える。そのほかにも、当時の新建築とともに建築学会の展覧会に出品されるなど、多くの建築関係者の目に触れ、話題になる下地は十分整っていたといってよい。
 東京中央郵便局に対し、いち早く反応を見せたのは東京帝国大学工学部建築学科教授の岸田日出刀(1899-1966)である。岸田は、『文藝春秋』1932(昭和7)年1月号収録の「新しい建築の観方」という随筆の中で、「東京駅前に殆んど完成してゐます中央郵便局の建物は、この種官庁建築と言はず、新しい大建築物中稀に見る優作だと思ひます。内部に設けられます最新式の機械的諸設備は勿論(計画だけは聞いてゐますがまだ完成してゐませんから実見してはゐませんが)、その形体や色彩意匠等、何等の奇を衒うことなく、而も胸のすくやうな清新さに溢れてゐます。」(p.?469)と「新しい建築」の代表例として挙げその意匠を評価している。また同記事(p.?471)に於いて、当時「建築界をにぎわせている日本趣味といふことについて一言したい」と「過去の日本の建築の表面だけを形式的に模倣再現することだけで能事畢れりとなすのは、この上ない不合理であり、無意義であり、且つ何よりも時代錯誤」と切り捨て、「中央郵便局の建物は一寸見ますとあまりに西欧的で日本的ではないと思へるかもしれませんが、よく見ますとあれで立派に日本的だと言へると思ふのです。これは詭弁でも何でもありません」と述べている。この記事については向井覚・内田祥哉編の『建築家・吉田鉄郎の手紙』(鹿島出版会、1969)の中に収録された海外出張中の吉田の手紙の中に登場していることから、1931(昭和6)年11月頃には準備されていたもので、非常に早い時期のものだったことがわかる。
 また岸田は、1933(昭和8)年8月執筆の「東京の新建築を語る」(『甍』、相模書房、1937(昭和12)年、pp.?199-224収録)の中でも「…今日日本に於けるこの種建築のうちで一番新しいよい建築として、私は東京駅前の中央郵便局を挙げるのに躊躇しない」と述べ、新しい建築理論の秀逸な実践として称賛している。さらに、その意匠は、「唯素直に構造と材料に適応する形体を活かし」たものであり、「鉄筋コンクリート造又は鉄骨造等の新しい構法によつて始めて成し能ふことで、古い石造や煉瓦造ではその構法上できなかつたものだといふことをはつきり認識してもらひたい」と述べるなど、鉄骨鉄筋コンクリート造という当時のまだ黎明期にあった技術の適応によるものであることも重視し、新しい建築理論と技術双方の発展と理解により出現し得た新建築として評価していることがわかる。また岸田のエッセイからは東京中央郵便局がその新しさゆえに「一見甚だ無風流に見えるかもしれず、何だ変哲もない詰らないと人によつてはむしろ悪口を言ふかもしれない。この建物が快く観られる人は現代建築の精神なり魂に触れ得た人として尊敬したい」と述べているなど、高い評価の背景にあった当時の状況を窺うことができる。東京中央郵便局が竣工した昭和初期は、過去の様式を引用した建築のほうが主流であった。そんな中、出現した東京中央郵便局は、日本において新しい理論による建築の実現に望む前衛のモダニストたちによって速やかに言語化され、日本の現代建築の最初期の例であり、かつ傑作としての位置付けがなされたことがわかる。


ブルーノ・タウトの評価による日本のモダニズム建築「東京中央郵便局」という構成
 そして、東京中央郵便局は日本の近代主義建築の傑作という評価を決定づけたのはブルーノ・タウト(1880-1938)であることは周知のとおりである。タウトは1933(昭和8)年5月28日に吉田鉄郎らの案内で東京中央郵便局を見学し「吉田氏の東京中央郵便局は非常にすぐれている、―震災前の設計だそうだが。吉田氏は最高の力量を具えた建築家であると同時にまた好ましい人物でもある。同氏の建築は極めて即物的だ。」(篠田英雄訳『日本 タウトの日記』岩波書店、1950、p.69)と日記に残している。またフランスの雑誌“L'Architecture d'Aujourd'hui”1935(昭和10)年4月号に寄稿した“ARCHITECTURE NOUVELLE AU JAPON”の中で、「同氏の手になる東京中央郵便局の設計は、既に一九二三年の大震災前に遡るものであるが、実に明朗で純日本的に簡素な現代的建築であり、その周辺に群立する事務所建築や百貨店等の建築とは類を異にする古典的な存在である。この建物は、日本にとつては当然である如く、できる限り大きな窓をもつてゐるが、西洋の有名な建築家の後塵を拝してゐる点はいささかもない。また押しつけがましいところはひとつもなく、控へ目でありながらしかもすぐれた釣合を基礎としてゐる、―つまり一切が醇乎たる日本的特長を具へてゐるのである。」(上野伊三郎訳「日本の現代建築」『日本の建築』収録、育成社、1948、pp.?44-46)と述べ、現代的日本建築の具現化として東京中央郵便局と建築家吉田鉄郎を称賛している。
 さらにタウトの日本での最初の著書『ニッポン』(平居均訳、明治書房、1934)では、「日本近代の優秀な仕事は、無理にも日本的ならんとしない点で優秀であり、且つ又日本的なのだ。それらは建築がそれと関係ない場合には、日本的モティーフは応用しない。例えば近代的な別荘、レストラン、学校及至逓信交通の事務を扱ふ建物等の如きである。それらは然し実に明確に其の条件に従つて建築を処理し、構造を選定し、同じく其の特殊な性質に応じて近代的の材料を使用し、その点、桂離宮に於て見るのと少しの変りもないのである。」(p.?150)と述べ、御茶ノ水駅、荻窪電話局、東京中央郵便局の写真を挿入している。中でも東京中央郵便局だけは写真が4点(図2)も収録されるなど、特に重視していたことがわかる。またタウトは「逓信交通を司る官庁が、其の最適の例として先人を承はるといふ事は、それだけでも日本を羨望するに足る現象」というところにも注目しており、東京中央郵便局のような新しい美学による建築は日本的美学に通じるものであること、しかも日本では吉田鉄郎のような官吏により実践されていることを気付かせるものであった。既に日本のモダニストたちにより注がれていたまなざしに類似するが、タウトのこれらの東京中央郵便局への評価が、『NIPPON』(日本工房、1934〜1944)や岸田日出刀らによる海外向けのメディアで東京中央郵便局など日本の当時の現代建築を紹介する枠組みの構成を後押ししたと思われる。

「東京中央郵便局」のイメージの建築家吉田鉄郎による定着
 ところで、タウトが使用した東京中央郵便局の図版(図2)は、いまはなき裏側立面を写すものがほとんどである。例えば前掲の『ニッポン』収録の図版4点のうち3点は裏側を、もう1点は出入口廻りの詳細を内側から収めたものであった。つまりタウトが特に裏側の意匠を高く評価していたことが窺える。また当時の建築家からも同様に裏側を高く評価する意見が散見される。たとえば、建築家の堀口捨己(1895-1984)は、「あの建物の表側の一角から見るのと後側から見るのとでは感じが違うが、後側の方が僕は好きだ。殊に近頃の夜景は彼の辺を通ると朗かだ。」(「1933年の建築を回顧する」『新建築』1933年12月号、新建築社、p.?234)と述べている。その後『NIPPON』(第1号、市浦健、“Moderne Architektur in Japan”、日本工房、1934、pp.?16-17)などに掲載された際も裏側の写真が大きく扱われていた(図3)。
 吉田鉄郎は東京中央郵便局の意匠について『逓信協会雑誌』1933(昭和8)年11月号での発表にあたり、その説明を次の文章からはじめている。「現代建築の様式は個々の建築の機能、材料、構造等から必然的に生ずる建築形体を最も経済的に最も簡明に、表現することによりて定まる。」、そして立面に対し「正面は周囲の諸建築と広場との調和上、自ら多少の記念性を帯び背面はセットバック、避難階段、発着台及びガラージの大庇、煙突等の必然的な建築要素によりて現代的な構成美を現出して居る。」と明確に線と面の構成という新しい美学の実践であることを記し、同時に建築「東京中央郵便局」に対する観方を示している。これにより東京中央郵便局は全体を通して、前提条件や機能や構造に対する必然的な回答として計画されたと説明可能なものとなっていることがわかる。モダニストたちに積極的に評価されなかった正面側の意匠でさえも、東京駅前広場に面する変形敷地という条件の結果であるとともに、裏側の複雑な立体構成を作り出す要素だったのであり、全ては正面側との対になった合理的な解決方法だったと理解することができる。このように東京中央郵便局は、最後に建築家吉田鉄郎自身により明確に意匠と理論との一致を意図したものと記録され、改めて日本のモダニズム建築の出現でありかつ傑作であることが決定づけられた、といえるだろう。

主要参考文献
吉田鉄郎「東京中央郵便局新庁舎」『逓信協会雑誌』第303号、逓信協会、1933年11月、pp.111-132。
矢作英雄「東京中央郵便局の設計者と竣工年月日の検証について」『日本建築学会論文報告集』1984年1月、日本建築学会、pp.139-146。
藤岡洋保「東京中央郵便局の設計趣旨」『日本建築学会大会学術講演梗概集』2007年8月、日本建築学会、pp.509-510。









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図1 東京中央郵便局関東大震災後の計画案模型写真.
(出典:吉田鉄郎建築作品集刊行会編
『吉田鉄郎建築作品集』東海大学出版会、1968)





図2 ブルーノ・タウト『ニッポン』(平居均訳、
明治書房、1934)で使用された東京中央郵便局の図版.


図3 グラフ誌『NIPPON』第1号に掲載された東京
中央郵便局のイメージ(撮影:渡辺義雄).
(出典:Ken ICHIURA“Moderne Architektur in Japan”
『NIPPON』第1号、日本工房、1934、[金子隆一監修
『復刻版 NIPPON』、国書刊行会、2002 ])









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