東京大学総合研究博物館 The University Museum, The University of Tokyo
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東京大学総合研究博物館ニュース ウロボロスVolime16Number1



平成23年度春季企画 特別展示『弥生誌 −向岡記碑をめぐって』
東京大学本郷キャンパス浅野地区の史跡

西秋良宏 (本館教授/先史考古学)

 総合研究博物館は本郷キャンパスの南西隅に位置している。本郷三丁目駅から通勤、通学する者にとっては、赤門から入ろうが懐徳門を利用しようが、いずれにせよ加賀藩前田家由来の史的モニュメントを目にすることになる。赤門は言うまでもなく江戸期の御守門であるし、懐徳門には総合研究資料館(当時)増築時に発掘された前田侯爵家の洋館基礎がしつらえてある。細かな説明がなくても我々が加賀藩邸の跡地で学んでいることを毎日、知らされる。
 かつて総合研究博物館では、『加賀殿再訪』という特別展示を開催した(平成12年春)。本郷キャンパス内で見つかった、そうした加賀前田家ゆかりの遺構、遺物を整理、公開する展示である。近年急速に進展した学内の発掘調査によって、赤門、心字池といった地上の文化財だけでなく、地下に眠っていた江戸期の埋蔵文化財が大量に蓄積されてきた。また、その研究も進んだ。展示は、それらを使って近世、江戸学への考古学の貢献を検証することを意図したものであった(拙編『加賀殿再訪』東京大学出版会)。
 今回の展示で扱うのは、総合研究博物館からみればキャンパスの対角線の端に位置する浅野地区の史跡である。そこには、かつて水戸徳川家の中屋敷、駒込邸があった(図1)。現在はアイソトープセンターや工学部、武田先端知ビルなど理系諸科学の実験系建物がところ狭しと立ち並んでいる。文化系の関係者からすればあまり訪れる機会がないかも知れない。だが、考古学を学んだ者はほとんどが訪れているはずである。というより、本郷に進学したばかりの3年生が講義で最初に引率されるフィールドの一つなのだ。筆者も例外ではない。今から30年ほども前の春、どこへ行くのかなと訝りながらも先生に引率され遺跡、史跡を見学したことを覚えている。
 文学部考古学研究室のある三四郎池脇の法文建物から歩くと、まず弥生門から本郷地区を出る。そこから浅野地区までは民家やビルがたちならぶ私有地を経ねばならない。なぜ浅野地区が飛び地になっているのか。それにも歴史が関係している。一帯は明治初期、1876年からしばらく警視庁の射的場およびその関連施設として利用されていたが、1888年には民間に払い下げられ、北半は浅野侯爵家、射的場があった南半は住宅地開発に供された。その後、1941年から1943年にかけて東京大学用地となったのは北半のみなのである。飛び地の間にはさまれる私有地が見事な長方形をなしているのは、そこにあった射的場の名残というわけである。射的場として利用されていたのはわずか10年ほどだが、そこで訓練された部隊は西南戦争にも派遣されたという。
 さて、浅野地区に入ってからまず見学したのは弥生二丁目遺跡である。キャンパスがのっている本郷台地北端の草むら、工学部10号館の裏手にある。この遺跡は、1974年に地元の小学生が発見したもので、1975年に二度にわたる発掘調査が理学部人類学教室、文学部考古学研究室の手によっておこなわれた。一帯で1884年に最初の弥生式土器が見つかったことはあまりにも有名だが(図2)、その正確な発見地は諸説あって定まっていない。両研究室の発掘によって、弥生時代環状集落の溝や元祖弥生土器に類似した土器が出土したため、最初の弥生土器発掘地点に該当するか、あるいは近接するのではないかと推定された遺跡である。1976年には国指定史跡に指定されている。
 次に見学したのが、向岡記碑(図3)。高さ1.7m、幅1.2mほどの平たい石碑であり、弥生二丁目遺跡の西側にたっていた。かつてここが水戸藩中屋敷だった頃、九代藩主徳川斉昭が建立したものとされる。向岡というのは、不忍池をはさんだ向こうの岡ということでついた地名であるらしい。碑に刻まれているのは斉昭の詠歌(図4)。題額は「向岡記」、歌中には万葉仮名で文政11(1828)年「夜秘余十日」とある。三月十日とは斉昭の誕生日である。その記載が元となって明治初期、地名が向ヶ岡弥生町とされたといわれる。後に弥生は、考古学の土器型式、時代名称にもなるのだから、確かに考古学の学生は知っておいた方がよい。弥生時代と江戸時代、考古学をつなぐ奇特な石碑であった。
 要は、この地区一帯が弥生時代研究の出発点であったこと、当時の遺跡の構造や立地などを学んだわけだが、同時に学内の史跡や歴史を周知させるための講義であったと思う。言問通りに面して1986年に文京区弥生町内会が建立した「弥生式土器発掘ゆかりの地」碑はともかく、弥生二丁目遺跡の看板や向岡記碑は、文字通り、理系建物群脇の草むらに埋もれていた。教えてもらわなかったら、ここに徳川斉昭公が居を構え、碑を残していたことも知るよしもないし、自らが踏みしめていのが弥生時代の大集落跡地であったことにも気付かなかっただろう。1960年代くらいから活発になった学内開発によって、明治初期にはまだ多少残っていたかも知れない歴史的景観はほとんど消え失せてしまっていたからだ。
 その状況はさらに進んでいる。学内の開発は止まっていないから、講義で引率される学生にとっては、当時よりももっと景観が理解しにくくなっているに違いない。だが、遺跡がなくなる代償と言うべきか、開発前に埋蔵文化財調査室が記録保存のためにおこなう発掘もまた進んでいるから、学生に説明できる情報は明らかに増加した。射的場跡からは入り口部分の遺構や弾丸が出てきて、明治初期の兵法研究に資する知見が得られたし、弥生時代遺跡のひろがりや構造を知る手がかりになる方形周溝墓も見つかった(本誌、堀内秀樹論考)。30年前でさえ先史から近現代にいたるまでのいくつもの歴史話を聞けたのだが、今ではさらに深みを増している。
 今回の展示では、近年増加した新知見をあわせて浅野地区、水戸藩邸出土の文化財を紹介する。前回の加賀藩邸展からは10年ほどをへている。今回の展示の準備をするための下調べ中、筆者が最も様変わりを感じたのは、学内の遺構、遺物の保存が急速に進展していたことである。展示の主役となった向岡記碑は保存処置をほどこして風雨の当たらない情報基盤センター玄関口に移築されたし、武田先端知ビルのピロティには建設時に出土した方形周溝墓のタイル復元がなされている。いずれも平成19年から始まった学内史跡整備成果の一部である。整備は東京大学創立百三十周年記念事業の一環としておこなわれた。本郷地区よりもはるかに史跡の保存が悪い浅野地区。保護や整備事業に尽力された埋蔵文化財調査室の努力に敬意を表したい。
 展示では、向岡記碑を中心に、学内の史跡の保存修復、現況についても整理する。史跡を残すのはもちろん活用するためである。活用の目的はいくつもあろうが、大学にふさわしい活用の第一は、それを新しい学問領域の開拓や教育に使うことだと思う。1980年代、90年代に進んだ加賀屋敷の発掘は近世考古学という新分野の開拓と推進に大きく貢献した。今般の保存修復、整備事業の進展は、はたして新たな学問領域開発へと向かうのだろうか。結末を力強く語るにはまだ時間が必要だが、楽しみにしたく思う。



東京大学総合研究博物館、平成23年度春季企画

特別展示
「弥生誌 向岡記碑をめぐって」

     会  期:平成23年4月29日(金)〜平成23年6月26日(日)
     休 館 日:月曜日(詳しくはホームページをご覧下さい)
     開館時間:10:00より17:00まで(ただし入館は16:30まで)
     主  催:東京大学総合研究博物館・東京大学埋蔵文化財調査室
     協  力:公益財団法人徳川ミュージアム


関連企画
連続講演会『弥生誌 −先史、江戸、現代』

    日時と講師:2011年
    5月7日(土)堀内秀樹・原祐一(東京大学埋蔵文化財調査室)、
    14日(土)石原道知(武蔵野文化財修復研究所)、
    21日(土)小泉好延(武蔵野文化財修復研究所)、
    6月4日(土)設楽博巳(東京大学人文社会系研究科)、
    11日(土)竹内啓(日本画家)。いずれも14:00−16:00。
    会場:東京大学総合研究博物館7階ミューズホール
    定員:60名(申込み不要ですが先着順とさせていただきます)
    入場:無料
    *他に東京大学構内史跡ツアー、ギャラリートークが予定されて
    います。詳しくはホームページをご覧下さい。


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図1 水戸コ川家六つ葉葵紋瓦(弥生地区出土)


図2 最初に見つかった弥生式土器(重要文化財)


図3 移築前の「向岡記」碑(1975年、弥生二丁目遺跡調
査時に撮影。島根大学名誉教授渡辺貞幸氏教示)

図4 「向岡記」碑の臨書(飯村博氏書、
埋蔵文化財調査室提供写真)