模型千円札事件――芸術は裁かれうるのか


中原佑介 美術評論家



有罪となった「模型千円札事件」


[主文]
 被告人赤瀬川克彦を懲役3月に、被告人伊藤静および同安正茂をおのおの懲役1月に処する。
 被告人3名に対し、それぞれ、この裁判の確定の日から1年間右刑の執行を猶予する。
 押収してある千円の日本銀行券表側図柄の印刷用銅板1枚(昭和41年押第1,100号の1)を没収する。
 被告人赤瀬川克彦および同安正茂は、昭和38年5月中旬ごろにおける、緑に黒をまぜたインクを用いた印刷による千円の日本銀行券約900枚の模造の点については、無罪。

 去る6月24日、東京地方裁判所第701号法廷でひらかれた「模型千円札事件」最後公判における判決主文である。昨年8月10日の第一公判いらい、ほぼ1年近くにわたったこの裁判は、こうして有罪判決をもって第一審の幕を閉じた。(第一審といったのは、これで結審ではなく、判決を不当として上告することになったからだ。)これで、赤瀬川原平の「模型千円札」の作品[口絵23-1]は、「通貨及証券模造取締法」(以下「模造取締法」と略す)に違反するものであり、かれは二人の印刷業者とそれぞれに「共謀」して千円札を模造したと断定されたわけである。

口絵23-1

 裁判の内容については、第一回公判における検察官の起訴状、赤川被告の意見陳述、特別弁護人滝口修造ならびに私の意見陳述(のちに特別弁護人として針生一郎が加わった)、杉本昌純弁護人の冒頭陳述の全文が、本誌昨年の11月号に収録され、また公判の経過が、「手帳通信」「今月の焦点」欄に「裁判傍聴記」として何人かの筆者によって紹介されたので、そのおおよそは知られているのだろうと思う。第一回公判のあと、前後6回にわたって意見をのべた。(中西夏之、高松次郎、針生一郎、刀根康尚、篠原有司男、山本孝、愛甲健児、鈴木慶則、大島辰雄、福沢一郎、粟津潔、澁澤龍彦、池田龍雄、中村宏、秋山国晴、山田宗睦、川仁宏、中原佑介)。そして、昨年の11月12日、検察官の論告があり、「被告人赤瀬川に対し懲役6ヶ月。同伊藤、同安正に対し各々懲役4ヶ月。証拠物中の模造紙幣は没収すべきものと思料する」という求刑がなされていたのである。

 求刑にくらべれば、懲役が半年にへり、また押収されるものが、印刷用紙銅板一枚のみで、他は作品として返還されるという点、判決はかなり軽減されたかにみえる。しかし、「模造」という断定、有罪ということには変わりない。ともかく、被告、弁護側の主張は通らなかったわけである。

 昭和38年2月の「あいまいな海について」と題する個展、同じ年の3月の読売アンデバンダン展、5月にひらかれた、ハイ・レッドセンター(高松次郎、赤瀬川平原、中西夏之の3人によるグループ)によるミキサー計画「三つの観念の絵画的展示」。これら三つの展覧会に出品された赤瀬川の作品のあるものが、「模造取締法」に違反するというのが、起訴の理由であった。もうすこし具体的にいえば、「画家赤瀬川」が「印刷業者伊藤、安正」の2人と、それぞれに「共謀」して、千円札を「模造」としたというのである。

 個展「あいまいな海について」というのは、コラージュ作品を展示したものだったが、そのさい赤瀬川は、千円札の表側を写真製版の方法によって印刷し、その裏面に、展覧会の案内とかれのモチーフを刷ったものを案内状として製作し、それを現金書留封筒に入れて郵送した。読売アンデパンダン展には、千円札の表を二百倍に拡大して描いた作品、約2メートル四方のパネルを、クラフト紙で梱包したもの、および表側だけを一色刷りした千円札の原寸大の模型多数を出品。ミキサー計画には、模型千円札をパネルにすきまなく貼り合わせ、その一枚一枚を太いボトルでとめた作品、千円札の片面が並んで一色刷りされているクラフト紙で、日常生活のさまざまな物体を梱包した作品、それに原寸大の模型千円札多数など出品した。検査官がとりあげたのは、これらのうち、千円札の片面を一色刷りにしたものすべてである。それらは、「実物大の千円紙幣に紛らわしい外観を有する」から「模造」だという理由である。


「印刷」だけでは有罪ではない


 裁判の経過で特筆すべきは、第一回公判のさい、杉本弁護人が「模造」というが、いったいどの時点で犯罪が既遂となるのかを質問したのにたいして、検察官側は、千円札を写真製版によって印刷したものが輪転機をでた瞬間、つまり、「印刷」の終了した瞬間と主張していたのを、最後の論告の段階に至って、「印刷」に加えて「裁断」という行為を追加したことであろう。それまでは、「実物大の千円紙幣に紛らわしい外観を有する」ものを「印刷」したのが「模造」だと主張していた。それが、「印刷」した上、「実物大に裁断させ」たから「模造」だというように突然いいかえたのである。「印刷」だけでは、「模造」というのに理由薄弱だと判断したのであろう。「裁判」という訴因が、最後になって追加されたのである。

 判決文には、このことが反映している。「主文」のなかで無罪といわれたのは、日常品の梱包に用いられた、千円札の表面が多数印刷されたまま、原寸大に裁断されていないクラフト紙に関してだが、判決文にはこれについて次のようにいう。「通貨及証券模造取締法第一条にいう銀行紙幣に紛らわしい外観を有するものたるには、それが一枚ずつ個別に裁断されたものであることを必要と解すべきところ、本件訴因には右裁断の事実の記載がなく、また、本件の審理の結果によっても、訴因に示された印刷の過程までが認められるに止まり、かかる裁断までには至っていないことが明らかである。従って、この事実は、犯罪を構成しないことが明らかである……」要するに、写真製版で「印刷」していあっても、一枚一枚実物大に切り離されていないものは「模造」ではないということだ。「模造」とはまことにふしぎなものである。

 しかし、それを除いてはすべて「模造」であり、有罪ということになった。ここで、判決にみられる、弁護側の主張にたいする裁判官の意見の主なものをあげると、次のようになる。

 第一にこの「模造千円札」は、「模造取締法」に違反して罰せられるようなものではないという主張に対しては、このようにいっている。「模造取締法」の存在理由は、「模造」でなくても、紙幣に紛らわしいものがつくられ、「通貨等に対する公の信用を害するおそれがあると考えられる」場合、それを禁止するためである。「模造」とは、単に紙幣の外観を「模擬」したものをいうのでなく、「その行為の場所、時、態様あるいは相手方など、その用い方のいかんによっては、なお、人をして真正の通貨等と誤認させるおそれがあり、欺罔の手段としても用いられ得る危険性を持つもの」で、そのために通貨に対する公の信用を害するおそれがあるものを指すという。赤瀬川の「模造千円札」は、そういうおそれがあるというのである。

 また、この起訴は、芸術表現の自由、ならびに観賞、享受の自由の侵害、つまり、憲法にいう表現の自由を侵すものではないかという主張については、「憲法の保証するという表現の自由は、無制限なものではなく、その表現行為が同時に他の法益に対する侵害を伴う場合には、その表現の自由は、ある程度の制限を免れ難いことは当然である」とし、赤瀬川の作品は「通貨に対する社会の信用を害する危険性を持つことが明らか」だから、「本件〈千円札〉印刷物の製造行為が芸術活動であるからといって、この場合の表現の自由がかかる危険性を無視してまで保護されるべき程度に達しているものとは認められない」とのべている。つまり、これは危険なものだから、表現の自由という名の下に許容するわけにはゆかないということだ。これらを要するに。「模造千円札」は、ほんものの千円紙幣に紛らわしく、時と場合によっては、ほんものとして使われるかもしれず、そのため、通貨の社会的信用を害するおそれがあるもので、表現の自由が保証されているかといって容認できるものではないということであろう。その結果が、「主文」にみられる有罪判決なのである。


術は裁かれうるか


 ここでいう判決文の内容に立入り、それを具体的に検討しようとは思わない。それよりこの裁判を中心としながら、問題をもうしこしひろげてみたいと思う。まずこの裁判は、ひとことでいうなら「芸術裁判」である。そういう意味では、チャタレー裁判、サド裁判、あるいは最近の、映画「黒い雪」裁判など同質のものとはいえる。ただし、それらとはちがう特殊性があるとすれば、ワイセツではなく、「通貨及証券模造取締法」違反にとわれたということだろう。

「芸術裁判」とは、法律を楯にとって芸術を裁くことをいうのではない。法律が芸術を問題にしないという点が特徴なのである。検察官にとって、告発の対象が芸術であるということなど念頭に全然ないといっていい。この事件の場合もそうだが、法廷で弁護側が、「模造千円札」は芸術だと主張するのは、別に芸術だから大目にみてほしいなどということをいっているのではない。芸術を「大目にみてほしい」というりゆうぐらいしか考えていないのは検察側であって、検察官はいみじくも、その論告において「芸術評価は犯罪既逐後の情状にすぎない」と断言したのである。

 つまり「芸術裁判」とは、はじめから芸術を芸術ならざるものとして取り扱い、裁くことなのだ。というのも、芸術は法律によって裁くことのできないものだからである。それは、芸術が治外法権的なもの、法の適用のされない特権を与えられているもの、あるいは、法によって侵しえない尊厳なものといった意味からではない。さらには、芸術が法によって保護されるべき特殊ものだからでもない。そうではなくて、芸術とは生活の論理とか倫理、認識をこえたなにものかだからである。というより、生活の論理とか認識でカバーしてしまうことのできない行為、認識を、われわれは「芸術」と呼んでいるというべきだろう。法律というものが、れっきとして存在しているのと同じ濃度を持って、芸術という実体が存在しているわけではない。法律は、芸術の根拠を問うことはできないが、芸術は法律をなりたたせている根拠をも、対象とすることができるのである。

 検察官が、「模造千円札」だと主張するに対して、被告と弁護側は、それは「模造」ではなく千円札の「模造」であり、「芸術行為」であると主張した。これは、たとえば机の上に、「模造」と書かれたカードと、「模型」と書かれたカードがあり、一方は「模造」のカードを、他方は「模型」のカードを取って、互いにこれだと見せあっているようなものいではない。「模造」というのは、法律によって規定された概念であり、いってみれば、生活という次元での論理であり認識である。しかし、「模型」であり「芸術行為」といったのは、同じ生活という次元での異なったことがらというのではなく、それをはみだしたもんのだという意味である。

 芸術は、リング上の二人のボクサーのように、法律と相対峙してあるようなものではあるまい。それは法律をこえたなにものかなのである。もし、法と敵対することを意図し、それによって反社会性をうたおうというのなら、この事件でいえば、はじめから千円札の模造を意図してつくればこと足りる。案内文を刷ったりボルトでとめたり、梱包に用いたりするのは、愚行というほかないだろう。第一、片面だけ印刷するという必然性もまったくないのである。「模造千円札」は、生活の次元での認識の機構そのものを「見よう」とする作品であると弁護側は主張した。しかし、裁判は、それを生活の次元では認識ということだけで切ろうとするのだ。つまり、「芸術裁判」とは、生活をこえたものを、生活の次元のものとして取扱い、裁くもののことともいえるのである。

 芸術裁判として知られるものに、コンスタンタン・ブランクーシの作品をめぐったそれがある。1926年ニューヨーク港の税関で、送られてきたある金属製品が、税関吏によって「機械の部品」であると判断され、一般機械なみの関税がかけられることになったのが発端である。それは、真鍮を研磨した、プロぺラかなにかを思わせるような流麗なかたちをした物体だった。税関吏は、別に悪意があったわけではないかもしれない。あるいは、かれは善良で、彫刻といえば、たとえばミロのヴィーナスのようなものを思い浮かべる程度の知識の持ち主だったかもしれない。しかし、この物体は機械の部品でなく、ブランクーシのつくった「空間の鳥」(1919)という作品だった。

 現在からみると、ありえないと思われるような事件である。税関は彫刻だといっても納得しなかった。事件は「関税法」違反として法廷に移され、裁判となったのである。ブランクーシは、それは空間における鳥をあらわした作品だと主張したのにたいし、スエイトの書いているところによれば、検察官は最終法廷で「あなたは、その作品が空間における鳥をあらわしたものだというなら、もしあなたが鉄砲をもって、野外でその鳥を見たとき、それを撃つでしょうか?」と質問したという。検察官は、ブランクーシがプロぺラのようなものを、空間の鳥だと主張するのは、詭弁だと受け取ったのであろう。鳥は鳥のかたちであるべきだというのは、生活における認識である。ピカピカに研磨された真鍮の棒が、「空間の鳥」だというのは、一種の呪物信仰のようなものであり、そうとして受け入れるためには、生活的認識から飛躍しなければならない。しかし、法律は飛躍するわけにはゆかないのである。この事件は、結局、ブランクーシの主張が通り、無罪となった。「空間の鳥」は彫刻と認められたのである。

 この裁判と「模造千円札」の裁判とは同じものではないだろう。しかし、ひとつの共通性がある。もし、検察官が「空間の鳥」を指して、それは「空間の鳥」をあらわしたものだというが、研磨された金属のプロぺラ型の棒ではないかといったとき、どういえばいいだろう。たしかに、その通りである。したがってなんといおうと、機械の部品に紛らわしいといえばどうか。それは機械の部品でなく、「空間の鳥」という以外にはないのである。検察官が、「模型千円札」を指して、それは「認識の機構を見よう」とするものだというが、写真製版によって印刷したものではないかといえば、どういえばいいだろう。その通りである。したがって、実物の千円札に紛らわしいといえばどうか。つまり、どうやってみたところで、法律のなかから、「空間の鳥」あるいは「模造千円札」としかいいようがないのだ。つまり、どうやってみたところで、法律のなかから「空間の鳥」あるいは「模型千円札」という認識はでてこないのである。

 芸術が裁けないとは、そういうことである。私が弁論で、芸術と呼ばれるものには、表現の意図、作家の思想、行為、技術、結果のすべてが分離できない不可分のものであり、その総体をひっくるめてみなければならないと述べたのは、裁判は、その逆に、それらをばらばらにして、一部だけをとりだすからである。そうすれば、「空間の鳥」は金属棒でしかなく、「模造千円札」は、千円札の印刷物でしかないということになろう。そのとき、作品の成立する根拠である。生活をこえた認識は、霧散消滅してしまうほかはない。比喩的にいうなら、絵画をさして、これは油絵具のかたまりだ、というようなものである。それにたいして法廷で、これは芸術なのだと主張するものは当然とはいえ、ある意味ではこっけいなことといえなくもない。何故なら、芸術は論理的に「芸術」になるといったものではなく、一種の反論理のようなものだからだ。生活の論理からみれば、それはナンセンスのようなものであり、そのナンセンスをすくいとる網は、法律にはないというほかはないからである。


印刷物と醒めた意識


 しかし、だからといって、裁判において、作品を生活認識のレベルまでもつてきて、そこでやりあうわけにはゆかないのである。「空間の鳥」を金属の棒だという次元でやりあっても、はじまらない。金属の棒ではないところが、「空間の鳥」たるゆえんなのだ。「模型千円札事件」の場合、「芸術」であると主張するには、かなりの遠まわりを必要とした。というのも、それが、いわゆる絵画とか彫刻といった、みなれた形式のものではないからである。滝口特別弁護人が、冒頭の意見陳述のなかで、16、7世紀のオランダ絵画にみられる「トロンプ・ルイユ」(だまし絵)からはじめ、ついで、「レディ・メイドのオブジェ」について触れ、さらに、第二次大戦後の「ジャンク・アート」(廃棄芸術)や「アッサンブラージュ」(寄せあつめ芸術)、あるいは「ヌーヴォー・レアリスム」(新しいレアリズム)「ホップ・アート」、最後に「ハプニング」についてのべたのは、赤瀬川の仕事を、芸術上のひとつの表現行為として結論し、「彼の千円札の〈模型〉は世上いかに突飛に見えても、こうした現代芸術の動きのなかで見れば、それが共通の世代の意識の産物であること」を立証しようとするためだった。私が、「現実生活に限りなく深入りしながら、なお、現実の物体と一線を画す」ことを要求される現代の芸術の性格について論じたのも、同様の趣旨である。杉本弁護人が、冒頭陳述で、「現代美術のながれと赤瀬川の作品」という章で、延々と現代美術につういてのべたのも、同じ理由からだった。法廷で、ボロックからポップ・アートまでのスライドを映して、裁判官に現代美術の動向を解説しながら、私は、一方ではこんなことをしても法律にとっては所詮無縁なことだと空しい気持ちと、しかしこれ以外にないという奇妙な心理に襲われたものである。

 しかし、考えてみれば、赤瀬川の作品を指して、これほど芸術だ芸術だといったのも、法廷という特異な場所だからといえる。たとえば、私は、かれの作品を論じたり、しゃべったりするの、普通、いちいちこれは現代芸術であるなどと、あらかじめ前口上を述べたりしないだろう。ことは、「模型千円札」に限らない。なにかあるものを、これが芸術であるゆえんなどと、まじめな顔をしてしゃべるところといえば、まず法廷においてはないのではあるまいか。むろん、そうすることがひつようであり、またそういうほかはないとしても考えてみれば奇妙なことというほかない。これも、「芸術裁判」のもつ矛盾した生活によるのである。

 オブジェからハプニングまで、いずれも「模型千円札」と無関係ではない。しかし、私はかれがとくに紙幣をえらびだしたことに、特別な意味を感じないではいられない。紙幣、印刷、模型、日常の認識をこえた認識をつくりだすことなどー私が、そこに感じるの、こういう作品の出現は、あるいは、紙片に印刷された紙幣というものが、もはや時代おくれになりつつあることの、いちはやい先取りではあるまいかということだ。紙幣が印刷された紙片であることは、子供でも知っていることだろう。しかし、それは生活において、流通する紙幣というものいについての意識では、かくされている。紙幣は単なる紙きれではないのである。「模型千円札」は、この子供でも知っている事実を、明るみに出したといういう一面もあるが、私には、そのことよりも、こういうものの出現した「歴史性」ともいうべきものを感じないわけにはゆかない。

 50年前ではなく、30年前でもなく、4年ばかり前に、こういう作品が姿をあらわしたのには、それなりの「歴史性」があるのではあるまいか。それは、われわれが印刷されたものにたいして、遠くから山を眺めるように、ある種の距離感を抱きはじめたからではないだろうか。ポップ・アートに典型であるかのような、ポスターとか色刷りマンガとか写真、パッケージなどが、絵画の題材として姿をあらわすようになったのは、それらが氾濫として、われわれの生活がそのなかにどっぷりと浸っているからでなく、われわれがそれらに醒めはじめたことのあらわれと思われる。つまり、印刷物に酔うのでなく、醒めるのである。

 「模造」は、われわれ印刷物に酔うべきだという考えにもとづいている。実物に紛らわしい千円札の印刷物が危険だというのは、それが人を酔わせ、ほんものと思いこませる可能性があるからというわけだろう。赤瀬川のつくった「模型千円札」は、実物に一見似ていながら、ほんものそっくりであることを巧妙に拒否することによって、われわれを紙幣にたいして醒めさせるというものである。そして、こう「醒めた意識」は、われわれが印刷物に距離感を抱きはじめたことに根ざしている。私が「歴史性」というものは、こういう距離感は時代の推移と密接に結びついているという意味である。

 ポスターや色刷りマンガと同じ印刷物でありながら、紙幣をモチーフとした作品が、他の印刷物を用いた作品とは異質なショックをあたえるようにみえるのは、紙幣という名の印刷物が、もっとも醒めにくい性格をもっているからである。ポスターも有用性をもち、紙幣も有用性をもっている。しかし、紙幣の有用性とは、ポスターによって広告するといったものではなく、交換価値という眼にみえない独自のものである。いわば、もっとみえにくいだけに、もっとも醒めにくいものだ。

 この「醒めにくさ」こそ、「貨幣に対する公の信用」といわれているものにほかならない。しかし、われわれが醒めたところで、紙幣は突如として生活において無意味な紙きれに変貌するわけではない。無意味な紙きれと化すのは、生活をこえた認識の領域においてである。

 赤瀬川の「模型千円札」の特殊性と一般性は、そこにあるのであろう。一般性とは、印刷物すべての意識化という傾向であり、特殊性とは、そのなかでも紙幣のもつ独自性にもとづくものである。裁判所が、こういう問題をまっこうからとりあげるところだと考えるほど、私はオプチミストではない。起訴状や判決文をみれば、そのことは一目瞭然だ。「芸術裁判」では、芸術家は醒めた意識をもつことは許されず、生活人としてあらゆることに酔わなければならないのである。


芸術と犯罪


 私が証言にたったとき、検察官が最後に、「芸術と犯罪についてどう思うか」と聞いたので、正直なところびっくりしたものだ。「芸術家の犯罪」ではなく「芸術と犯罪」である。もし、現実生活の理論をこえようとすることが、「犯罪」だというなら、芸術は常に犯罪でありうるものだ。というより、犯罪となるべきである。しかし、われわれは、そういうことを犯罪とはいわないだろう「芸術」と呼んでいるのである。

 あるいはすべての芸術がそうではなくてもいい芸術もわるい芸術もあるのであり、いい芸術こそ、そういうのにふさわしいという考えもあるだろう。たとえば「模型千円札」はわるい芸術だという具合にである。しかし、芸術にいいわるいがあるのではない。われわれの意識を醒めさせる度合いがあるだけである。

 そして、醒めた意識と、社会の酔わせようという意識は、潜在的に衝突する可能性をひめている。法律がでてくるのはそのときである。しかし、法律は作品の認識のあたらしさそのものを問題にすることはない。裁かれるのものはつねに卑俗化され、矮小化かされてしまい、いわば、きわめて卑俗な犯罪として論じられるのである。「模型千円札」でいえばほんとうにおそるべきは、それが人を酔わせるからではなく、醒めさせることだろう。しかし、第一審の結末は、それがひとびとを酔わせるから犯罪であり有罪というのであった。ほんものの紙幣がひとびとを酔わせているのだから「模型」は許しがたい越権だというのである。
(『美術手帳』第287号 1967年 9 美術出版社より)





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