21世紀の縄文時代研究

− 今村 啓爾 −


旅人は峠にさしかかるとしばし足を止め、はるか来し方をながめやり、また行く手に続く道をみはるかす。私たちもまた西暦2000年というひとつの区切りにあたって、学問の過去を振り返り、将来を展望してみたいと思う。

縄文時代研究にとっても、これは二つの意味で過去と将来をみわたすための節目になるであろう。一つには研究の歩みをふりかえり、次の世紀でどのような研究を目指すべきかを考える機会として、そしてもう一つには、縄文時代という自然と人間が一体であった時代を通して、人類の過去を知りその将来を考えるための。


研究の現在と過去

日本在来の考古学とモースの大森貝塚発掘

大森貝塚の発掘調査は日本における科学的な考古学・人類学の出発点といわれている。そしてそれは東京大学の出発とも同時であった。大森貝塚の発掘調査報告書が本学理学部研究紀要の第1号として発行されたことがそれを象徴している。

大森貝塚の調査が日本で最初に行なわれた科学的な発掘調査であることに疑いをはさむ余地はない。しかし学史もまた過去に固定されたものでなく、学史研究として前進すべきものという点にこだわり、私は大森貝塚の位置づけに対して意識的に疑問を呈したい。その第1は、それ以前の古物収集趣味と大森貝塚の関係であり、第2は大森貝塚の研究方法がその後日本の考古学研究に根付いたのかという疑問である。

第2点から始めよう。大森貝塚における調査の方法や精神は、その後の日本に根付いてはじめて日本における考古学・人類学の起源といえるのではないだろうか。それが早咲きのあだ花で終わってしまったのなら、大森貝塚を学史にどう位置付けたらよいのか。大森貝塚の発掘は明治10年、報告書の出版は12年、そして同じ年モースの教えを受けた飯島魁・佐々木忠次郎らが茨城県陸平貝塚の発掘調査を行なったが、モースの流れはここでほぼ途絶えてしまう。飯島魁はその後日本の動物学の基礎を築き、佐々木忠次郎は昆虫学を開拓するが、考古学・人類学の道には進まなかった。この不幸な断絶は大学の分野構成にも関係がある。モースは動物学科のお雇い外国人教師として学生を指導したのに対し、その後の日本の人類学・考古学を牽引したのは、人類学講座の坪井正五郎である。彼はモースの指導をうけておらず、むしろ対抗心をもって行動した。坪井の研究の中に遺物の細かい記載はあっても、モース流の客観的な報告の姿勢、遺跡・遺物観察に立脚する実証的な分析の姿勢は認めにくいのである。実証より想像が先行する坪井の立論の仕方は、むしろ江戸時代の趣味的な古物研究の続きを思わせる。そして明治の学界の中心を占めた研究課題「日本の先住民族は誰か?」に注目するとき、われわれはそこに江戸時代の古物研究からの系譜を認めざるをえない。ここで第1点にもどろう。

これまで、江戸時代の古物収集と研究については、趣味的なものとする否定的な評価が一般的であった。たしかにそれは趣味として始まった要素が大きく、真理追究といった高尚な目的がかかげられたわけではなかった。しかし学問の始まりとは多かれ少なかれそのようなものではないのか。衣食住に直接関係しない知的好奇心にしたがって行動することが学問の始まりであろう。

日本では世界的にも早い時期に石器を人工物であると認めた新井白石が現れ、石器を並外れた情熱で収集し大部な図録『雲根志』(18世紀末)を出版した木内石亭が続いた。同じころ田邨三省は『会津石譜』において「石器の出土地には必ず土器があるから石器は人工物であり、上古には鉄がなく石で鏃を作った」と遺物の共存から石器の性格と時代性を洞察し、「奥山の乾地には上古の集落があった」と遺跡の立地のありかたまで観察した。これらは世界の先史文化研究の中においてきわめて早く優れた業績なのである。もう一つ誤解があるのは、モースの大森貝塚調査のころ、西洋の先史学・人類学は完成の段階に至っており、それをモースが日本に紹介したという理解である。実際はモースの大森貝塚の発掘調査は、貝塚の調査としては当時の欧米にあっても数少ない先駆的研究の一つであり、傑出したものであった。このような大森貝塚の報告とそれまでの日本の古物研究を比較してそこに科学性において大きな隔たりがあることを批判するのは、日本で独自に育った考古学的研究が世界の最高レベルに達していなかったという無理な注文なのである。われわれはこれら日本考古学の創始者たちに対しモースに対するのと同様に学問の創始者として尊敬を払うべきであろう。

さて第1点と第2点をつなぐのが日本先住民族論である。この学説は新井白石の粛慎説に発し、木内石亭の蝦夷説を生み、シーボルト父子のアイヌ説として受け継がれ発展し、坪井正五郎に対抗した白井光太郎によって保持され、大正年間に鳥居龍蔵のアイヌ説として完成をみた。この民族論中心の流れを主流とみると、大森貝塚は流れの中の孤岩でしかない。いやモースでさえもこの流れと無縁ではない。モースのプレ・アイヌ説は同時期に日本で活動を開始していた小シーボルトのアイヌ説に対するものとして提出されたとして初めて理解できる(モースがアイヌ以前としたのは大森貝塚人であって日本の先住民をすべてアイヌ以前としたわけではない)のだから。坪井正五郎はモースに反感を持ちつつもその発想を借用し日本先住民コロボックル説を唱えた。

このような流れを見るとき、日本考古学・人類学の起源において江戸時代の古物収集趣味からくる大きな流れに注目せざるをえないし、後継者を欠いた大森貝塚の調査によって新しい科学的な考古学が日本で開花したというような楽天的な学史的理解にも反省を求めざるを得ない。

さて、空想論的先住民族研究は、縄文土器の担い手をアイヌ民族、弥生土器の担い手を大和民族とする鳥居龍蔵のアイヌ説としてまとめられた大正時代の終わり頃になって大きな転換を迎え、二つの大きな方向に分かれた。その一つは遺跡で人骨を収集し、その形態という証拠によって実証的に先住民族の所属を明らかにしようという方向であり、その後の人類学の中心をなす問題と方法の設定である。もう一つは、地質学の層位理論と標準化石の概念、生物進化の概念にヒントを得た土器の編年研究である。縄文時代を土器の変化を手がかりに細かい段階にわけ、歴史が進行する過程を詳しく観察するための道具にしようとする方法で、その後日本考古学の基本的方法となる。1924年に行なわれた千葉県加曾利貝塚の発掘はこの点で学史の定点となる。小金井良精は人骨収集の目的をもってこの発掘にあたり、山内清男・八幡一郎・甲野勇らは土器編年の目的をもってこの調査に参加した。本展示ではモースの発掘資料、飯島魁・佐々木忠次郎による陸平貝塚の資料に続き、骨格による縄文人研究のために収集された膨大な人骨資料の一部と山内清男の土器編年研究の基準になった土器資料の一部を展示した。山内は縄文時代を全国的に5大時期区分し、そのなかをさらに細分する編年網を構築し、この体系のなかで、各文化に対し秩序ある位置付けをおこなうべきことを主張した。その一つの結論として、縄文文化と弥生文化は全国的に年代の前後関係で理解されるとし、異なる民族を担い手いてとして長く並存したとする理解を批判した。

新しい研究方法の開発

縄文時代には文字による記録はなかった。だから彼らの文化や生活ぶりを知るためには、彼らの生活した場所や残した道具、食糧のくずといった物質資料を手がかりにしなければならない。同じ時代の地層に混入した花粉といった、たまたま近くにあった物質でさえも自然環境の復元に重要な手がかりを提供する。このような多種多様な物質資料を分析するには、肉眼で色や形を観察する事を超えて、さまざまな科学的分析方法が力を発揮する。物質資料による研究はすでに大森貝塚の時点で開始されているが、第2次大戦後に著しく発達し、現在その様々な方法の概要を紹介するだけでも優に1冊の本をなすであろう。ここでは縄文時代に関して大きな貢献をした研究のいくつかを紹介するに留めざるをえない。

従来前後関係はわかっても今から何年前のものなのかということを知ることが困難であった縄文研究に年代を与えたのが放射性炭素同位体による年代測定である。木炭、貝、骨など当時の木炭を含有する資料があれば年代が測定される。これによって遺跡やその遺品に今から何年前という年代が与えられるようになり、直接的な文化の交流のない遠隔地の間の年代関係も知ることができるようになった。しかしこの年代測定は考古学の体系の基盤にかかわるものであるだけに、その精度や限界からくる慎重論、否定論も多かった。近年の加速器によるこの分析方法の革新は、微量資料での測定を可能にし、湖底堆積物の年縞との対比などによって、放射性年代と実際の暦年代のずれを補正する道を開いた。

放射性炭素ばかりでなく、フィッショントラック、フッ素含有量、熱ルミネッセンスといったさまざまな年代測定法が開発され、縄文研究に適用されているが、年輪を継ぎ足し古いほうへさかのぼっていくという単純な原理による年輪年代学の努力は遂に彌生時代に達し、その曖昧さのない年代が弥生時代観を一変させつつある。その方法が縄文時代に応用されるのも時間の問題であろう。

人間集団が発展するか衰退するかは、かれらの持つ技術でどれだけの食料を獲得できるかによるところが大きかった。食料遺残の肉眼的・顕微鏡的レベルでの分析に加え、脂肪酸・ステロールといった残留物質の分析機器による分析、また人骨の中に含まれる炭素の同位体組成から摂取された食料の大きな傾向を読み取る方法など、従来想像もされなかった方法が開発されてきた。

縄文時代にあっても必要な物資を集団間の交易によって入手することがさかんに行なわれた。それを実証するのが、石器の材質や土器の胎土についてさまざまな科学的分析によって産地を知る方法である。物資の動きはそれを交換した集団どうしの社会的関係を読み解く手がかりとなる。

第四紀の自然環境を復元するさまざまな方法―花粉や昆虫を含む動植物の分析、沖積層の貝類・有孔虫の分析、湖沼堆積物の年縞分析などは、縄文人をとりまいた自然環境がどのようなものでどのように変化したのかを明らかにしてきた。

人間の遺伝的系統についても骨の形の解析にコンピュータによる数学的解析が大きな役割を果たしてきたが、近年、遺伝情報の集中するDNA解析が人類の系統に関する研究に革命をもたらしている。とくに古人骨からもDNAの採取が可能であることがあきらかになり、この方法によって縄文人を遺伝的に位置付けることが試みられている。

情報の洪水と研究の細分化

研究が進むにつれて専門分化が進むのは学問研究の常であるが、考古学ほどそれが著しいものも少ないのではないだろうか。土木工事にともなう事前発掘の件数は年に1万を超え、その結果発行される発掘報告書は年に3000冊に上る。とうてい個人の力でカバーできる数ではない。近年新聞紙上をにぎわすことの多い考古学の発見記事はこのような大変な数の遺跡調査の結果の一部分なのである。この考古学情報の洪水に対応するため、守備範囲を限定して最先端の研究レベルを保持することが、大多数の研究者にとってやむをえない選択となっている。これによって考古学者は大きく二つのタイプに分裂したように見える。超専門的に特定の分野を納得のいくまで精密に分析する大多数のタイプと、細かいことは気にせず大雑把な縄文観を論ずるタイプである。始めから遺物の細かいことには興味のない民族学者などが後者のタイプとして縄文文化を語るようになった。


21世紀への展望

科学的方法

すでに述べたように、20世紀後半から考古学・人類学における自然科学的分析法の貢献は着実に進展してきた。これは21世紀に入りさらに大きく展開するであろう。今後どのような新しい科学的方法が開発されるか、科学者ならぬ私には想像すら不可能である。科学者はむしろ想像もされなかった独創的方法を開発することに情熱を燃やす。私たち考古学者はその開発を楽しみに待つ。考古学の資料は過去の生活をとりまいた物質、モノであり、地質・岩石・鉱物・金属・植物・動物・気象・海洋・原子物理・遺伝・化学・物理学・数学といったあらゆる自然科学諸分野の分析方法が関連することにおいて稀な学問分野といえる。今後も個々の分野からのいっそうの協力が求められるとともに、そのような様々な分野の連携・総合化が求められる。

情報の電子管理と共有

考古学におけるきわめて基礎的な部分で21世紀に期待してよいのは、コンピュータによる考古学情報の伝達・参照・整理・蓄積である。
考古学の一つの特徴は情報の学問という点にある。これはどのような学問分野にもあてはまるが、とくに考古学においては、どこの遺跡から何が何と一緒にどのように出たかという、それだけではとりたてて意味があるようには見えない情報が無数に集積することによって、ある歴史像が浮かびあがってくる。

すでに述べたように近年の考古学は情報の洪水の中にある。考古学者は研究以前ともいえる情報収集作業に多大の労力を割き、各研究者は自分の守備範囲を狭めることによりこの状況に対応してきた。とほうもない発掘報告書の数は、どんな大学の考古学研究室・図書館でも収集不可能であり、もし集めてしまったら置き場所がないという事態は異常である。

考古学者の努力の相当の部分が、情報の収集――といえばかっこいいが、実はどうやって報告書を買い集めコピーを集め、置き場所を見つけて保管するか――にかけられている。これを克服するおそらく唯一の手段は、電子機器によりすべての考古学情報が卓上の一台のコンピュータによって読める体制を確立することである。このことは発掘情報の多くが、調査終了以後かなりの年月を経て発表されるという問題の改善にも役立つであろう。図や写真による膨大な伝達を必要とする考古学情報は、現在のパーソナルコンピュータの能力では十分対処できない。しかし近年の急速な発達を目の当たりにするとき、それが夢でないことは確かである。これによって考古学者は、情報集めという原始的作業から解放され、考える作業に集中できるようになる。自分の専門分野を十分研究しつつ、周囲の分野の研究状況にも目をやる余裕が得られるであろう。

共同研究

発掘という調査の形が個人ではできないように、発掘成果の集積の上に立つ総合的研究にも共同研究が必要である。情報の集まりに潜む意味ある脈絡を読み取るために、情報はできるだけ詳しくまた広く収集分析する必要がある。このために各地域について熟知する多数の研究者の共同研究が理想的な形態となるであろう。ときおり共同研究者が集まって情報交換をするという現在の多くの共同研究の形態から、コンピュータネットワークで結ばれた研究者が日常的に一つの仮想の机を囲んで作業するような共同研究が有効となるであろう。

ミクロとマクロの両極追及

あらゆる学問分野において研究の細分化専門化と広い視野の確立という二つの方向が求められる。近年の縄文研究においては後者を犠牲に前者が追究されてきたといってよい。電子機器による情報の交換がその2方向の両立のための突破口となるであろうことを述べた。しかし考古学にとってより重要なのは、国際的な視野のなかで見ることである。日本の周辺、東北ロシア、朝鮮、中国、東南アジアの同時期の文化と縄文文化の間にはどのような違いと共通性があるのか、大きな視野で見なければ縄文時代が何であるのかは見えてこない。さらに遠く西アジアやヨーロッパ、アメリカ大陸の文化と比較して縄文文化の個性が浮かび上がる。幸いなことにこの30年ほどの間に日本の周辺地域の考古学の発展は目覚しく、これを行なう条件が整ってきた。各研究者が自分の専門分野を十分押さえながら全体の状況の理解も共有することが理想である。もちろん理系を含めた異なる分野の協力が必要である。また国際的な協力も。従来の個別的、名目的、お祭り的な側面が強かった国際共同研究から実質的日常的な国際共同研究への移行が望まれる。ミクロ(最小)とマクロ(最大)の統合。この困難な課題の克服によって縄文研究がほんとうに近代的な学問の名に価するものになる。

物の説明を超えて

さまざまな関連分野の協力と共同研究の必要を書いた。しかしそれ以上に必要なのは、考古学の主体性を維持した縄文研究の発展である。その中核となるべきは、物質資料をよりどころとする考古学研究にとって逆説的になるが、物質を超えることであろう。発掘された物がいつごろどう作られ何に使われたものかという即物的な研究を超えて、物を通して人間の社会を復元し、人間が環境に対してどのような行動形態で適応したのかといった、それ自体モノとして残らない部分の復元である。

このことはこの四半世紀、とくに欧米において声高に主張されてきた。それは問題意識の高揚を含むものであったが、一面、物質資料の軽視、すくなくともその分析に多くの労力を割くことを嫌い、抽象的議論を重んじる傾向を生み出した。問題意識ばかりが先行しその解明としての実証が追いつかないといった状況、いろいろ議論はしたが後に何も残っていないという結果に終わることがすくなくなかった。

問題意識の提示だけで新しい研究としてもてはやされる時期はすぎた。必要なのは考古学の土台である物質資料を十二分に分析したうえで、その上に確立される物質を超える歴史像である。その進展には依然として共同研究よりも個人の脳裏における洞察が重要であろう。

人類の存在を見つめるために

現在縄文はある種のブームの中にある。人間と自然が共存し、階級も戦争もなく日々自由で平和な生活を謳歌した時代というイメージは、現代社会の息苦しさに疲れたひとたちにとってユートピアの時代に見える。都会の喧騒と日々の生活の拘束から解放されたキャンプ生活の楽しさが永続しているような夢の時代である。さらに三内丸山遺跡で振りまかれた「縄文文明」の「巨大木造神殿」は、「縄文の首都」、ユートピアの牙城のイメージをもって縄文ブームを駆り立てる。

近年のマスコミの考古学の扱いかたを見ていると、考古学の役割は人々に夢を与えることにあるのだろうかと思われてくる。たしかに暗い話題が多い新聞やテレビのニュースの中で、考古学の新発見ほど誰の不幸もいがみあいもなく、多くの人たちに新鮮な驚きを与え、一瞬古代のロマンに誘う明るいニュースは少ないであろう。しかしその面を求めるあまり、記者だけでなく「研究者」まで人々に向かって無責任な虚構を語り、言葉のうえでの誇張を競いあうようになったらこれはもう学問とはいえない。

縄文時代は日本列島が現在とほぼ同じ気候条件にあった時期の八割を占める長い時代である。人間と自然環境が密接な関係にあったというよりもむしろ人間も自然の一部であったような時代である。人類の未来を考えるにあたって環境とのかかわりは最大の問題となるであろう。環境と人間はどのような関係にあるかを理解するために、世界でもっとも長期にわたり人間と自然のかかわりの詳細なデータの得られている縄文時代の情報は重要な示唆を与えてくれるにちがいない。その関係は冷静に解明すべきものとして存在する。はじめから美化すべきものではない。豊かな自然が縄文人に安定した恵みを与えた時期もあった。しかし同時に厳しい試練の時期も繰り返しやってきた。人間と自然は共存するばかりでなくときに対立する部分もあった。自然環境の変化とそれに対して人間が生きるために行なった創意工夫の織り成した結果が縄文時代の歴史として我々の前にある。われわれはそこに一時の安らぎではなく、人類の過去の本当の姿を知り、未来を構想するための手がかりを求めるべきであろう。