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哺乳類


―人類―


35 港川人1号人骨

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沖縄県具志頭村
大山盛保
1970年8月発掘
総合研究資料館、人類j部門

沖縄県港川遺跡
更新世末期(約1万7000年前)
推定身長 153cm
資料館人類・先史部門

港川人1号人骨は、沖縄で発見された4体の港川人化石骨格の中で最も保存のよいもので、日本のみならず東アジアの末期更新世人化石を代表する標本である。港川人骨が学問的に貴重なのはいうまでもないが、発見の契機や研究の過程も日本の人類学史的に興味深い。4半世紀前に人骨を直接に発見した那覇市の実業家である大山盛保氏と、人骨研究の中心となった鈴木尚東京大学名誉教授は、ともに現在83歳と高齢にもかかわらず、極めて壮健である。なお、以下の文章中では敬称を省略する。

港川人骨の発見

1966年、沖縄は日本復帰前だった。沖縄歯科医師会長・平良進から、東京大学人類学教室教授・鈴木尚に、大山洞穴、カタ原洞穴、桃原洞穴出土の人骨が鑑定依頼された。この当時、鈴木は、東京大学古生物学教授・高井冬二とともに、日本各地の更新世人化石の調査を精力的に行っていて、すでに、三ヶ日や浜北で化石人骨を発見していた。そして、石灰岩地帯の多い沖縄からの更新世人骨発見に対しても大きな期待を寄せていた。そのために、翌67年1月には、鈴木および高井が沖縄を訪れて、沖縄大学教授・高宮広衛および琉球政府文化財保護委員会主事・多和田真淳とともに化石発見地点の巡検を行ったのである。

1967年11月、那覇市の実業家・大山盛保は溜池の改良工事に使うつもりで泡石の石材を購入した。泡石というのは粟おこしみたいな沖縄地方独特の石灰岩であり、数十万年前という地質学的には最近にサンゴや有孔虫の石灰分が固まって形成された、いわば出来たての、圧縮されていない石灰岩なのだ。その泡石の割れ目に、イノシシの化石を見つけた大山は、琉球人の先祖の古い人骨化石が出るに違いないと確信した。そして、泡石の産地が具志頭村の港川採石場であることを突き止め、毎週のように化石探しに通うことになったのである。

ほどなく、大山は何点かの人骨を発見した。そのうちでも特に、脚の骨の断面形が三ヶ日人骨や縄文時代人骨と似ていることを確かめた大山は、多和田に相談し、東京大学人類学教室教授の鈴木に調査を依頼した。しかし、鈴木の都合がつかなかったため、同教室の先史学教授・渡邊直經が団長として、1968年に文部省科学研究費による調査団を組織することになった。大学院修士過程の1年生だった筆者も、その末席を汚していた(挿図1)。

港川採石場で人骨が発見されたのは、石灰岩の構造的な割れ目の堆積物の中だった。その割れ目は、幅は1メートル弱だが、深さは20メートル以上、長さは数百メートルを越えていた。発掘を始めてみると、割れ目の中は、鍾乳洞と同じように、泥や砂の堆積とその上を被う石灰華が複雑に入り混じっていた。1968年暮れから翌69年にまたがる2週間ほどの調査で、多くの動物骨化石が発見されたが、人骨は見つからなかった。

実は、このときの調査では、ほかに那覇市内の山下町洞窟も同時に発掘され、そこからは子供の脚の骨(大腿骨と脛骨)の破片が見つかった。そして、「那覇市山下町で旧石器時代人骨発見」と新聞で大々的に報道され、港川採石場担当の我々は何とも悔しい思いがした。しかし、筆者にとっては、初めての更新世遺跡の調査という貴重な体験がうれしかった。

この発掘の期間中、大山はホテルと現場の送り迎えに人も車も提供し、あらゆる援助を惜しみなく与えてくれた(挿図2)。最後には、自ら運転する車で、学生たちを沖縄見物につれて行ってくれた。その後も、大山の人骨化石探索の情熱はさめるどころか、ますます盛んになっていった。そして、翌1970年の夏、鈴木と筆者らがレバノンとシリアにネアンデルタール人遺跡の調査に出かけている最中に、大山から人類学教室に連絡が入った。港川採石場で化石人骨が見つかったとのことだ。そこで、やはり渡邊が駆けつけてみると、保存良好な人骨が数多く出土しており、琉球政府教育委員会の人々の協力により取りあげられた。これが、いわゆる港川人骨である。
35-1 1968年暮の発掘当時の港川採石場。石灰岩の割れ目の中の堆積にヒトや動物の化石が入っていた。35-2 港川人骨を発見した大山盛保氏

初めて明らかになった更新世日本人の全貌

(1) 港川人骨の整理と研究
発掘された港川人骨は、東京大学人類学教室に運ばれ、鈴木によって基本的整理と同定がなされた。そして、数年後から、港川人骨に関係する研究は分担して実行された。形態学的研究は、頭蓋は鈴木尚(後、国立科学博物館および成城大学)、歯は東京大学教授・埴原和郎(後、国際日本文化研究センターおよび国際高等研究所)、体幹体肢骨は独協医科大学講師・馬場悠男(後、国立科学博物館)と東京大学助教授・遠藤萬里が担当した。地質学的研究は静岡大学教授・土隆一が担当し、年代学的研究は国立科学博物館研究官・松浦秀治(後、お茶の水女子大学)が担当した。それらの研究結果をまとめた英文報告書が、東京大学総合研究資料館紀要第19巻として、1982年に出版されている。

(2) 港川人の古さと貴重さ
港川人の年代は3種類の方法で確かめられている。まず第一は、人骨のそばから発見されたいくつかの炭化物を放射性同位元素法で調べた結果による約1万8250年前と1万6600年前の年代である。第2は、人骨と一緒に見つかった動物骨の表す動物相(シカがイノシシより多い)が、更新世末期(2〜1万年前)のものと一致することだ。これに関しては、大山自身の研究による貢献も大きい。第3は、松浦の分析による人骨や動物骨に含まれるフッ素の含量(0.9〜1.7パーセント)が多く、縄文時代よりかなり古い時代に相当することである。
これらの結果はお互いに矛盾なく、港川人骨がこの時代に由来することの確からしさを示している。港川人が何の文化遺物も伴っていないことから、年代に疑問を持つ人々もいるが、単なる憶測にすぎないことは明瞭である。港川人骨はアジアの化石人骨の中では質・量ともにトップクラスであり、単に日本人の祖先としてだけでなく、東アジアの新人化石を代表する極めて貴重な資料である。港川人の発見によって初めて、それまで謎だった日本更新世人の姿が、頭の先から足の先まで具体的に明らかになったといえる。

(3) 港川人は小型サッカー選手
この展示されている1号男性人骨を代表として、港川人の身体の特徴を見てみよう(挿図3)。推定身長は153センチと小柄である。上半身はやせていた。鎖骨は細く短いので、肩は女性のように狭かった。上腕骨も細いから、肩や腕の力は弱かったはずだ。ただし、前腕(肘と手首の間)の尺骨と橈骨、そして手の骨は身体のわりには大きかった。どうやら握力は強かったらしい。粗末な道具を使いこなすためには頑丈な手が必要だったのだろう。背骨も細いので、上半身に大きな力が加わることはなかった。重いものを担ぐこともなかったらしい。それに比べ、下半身はしっかりしている。骨盤は身体のわりに大きい。大腿骨は身体に合った大きさだが、下腿(膝と足首の間)の脛骨と腓骨は頑丈で、足の骨は大きい。特に、足の筋肉の付く腓骨が発達している。荒れた山野を走り回って食料を見つけるためには強靭な足腰が必要だったのだろう。港川人の身体は、余り栄養状態のよくない採集狩猟生活に適応して、必要な部分のみを発達させ、必要のない部分を切りつめたものと言えよう。それだけ、自然の要求が厳しかった。
港川人より新しい縄文人は、港川人より大柄で(男性平均推定身長158センチ)、頑丈である。特に、肩幅が広く、力が強かった。栄養状態が良くなったと同時に、船を漕いだり、家を建てたり、ドングリを集めて運んだり、というような体力を必要とする仕事が増えたのだろう。


35-3 港川人一号男性骨格と現代日本人男性骨格の比較

(4) 港川人の頭と顔は原始的
現代人の球形に近い頭と比べると、港川人の頭は低く広く長い(挿図4)。頭は小さくはないが、骨が厚いので脳容量は少なめである(1号男性で1390ミリリットル)。ただし、これは身体が小さいためであって、知能が劣っていたわけではない。ちなみに、現代女性の平均も同じくらいである。しかし、頭の形は原始的で、耳の後ろのあたりが横にでっぱっている点は旧人に似ているほどである。さらに、前頭骨が小さく、額が狭いのが特徴である。額が狭いのは、その両わきの側頭窩が現代人の2倍も大きいからである。側頭窩というのは咀嚼筋の1つである側頭筋のはいるスペースであり、大きければ、それだけ側頭筋が発達していたことを意味している。つまり、港川人は現代人より2倍も咬む力が強かった。

35-4 港川人一号男性頭骨と現代日本人男性頭骨の比較

港川人の顔を前からみると、上下に短く幅が広い。角ばった丸顔である。額に比べて顔が広い感じがするのは、頬骨が横にはりだしているからであり、咀嚼筋が大きいことに関係している。つまり、頬骨の後ろにある側頭筋が大きいので、頬骨を外側に押し出すのである。それだけでなく、頬骨の下に付いている咬筋が大きいので、その付着するスペースを確保するためにも、頬骨が横にはりだす必要がある。
港川人の顔を横からみると、プロフィルが凸凹している。眉間はでっぱり、鼻の付け根は引っ込んでいるが、鼻背は高い。そして、目はくぼんでいるので、彫りが深い。我々から見ると、こわそうな印象だった。歯は強くすり減って、歯冠の大部分がなくなっている。前歯は爪切りのようにぴったりと合っていたので、口元はひきしまっていた。現代人の多くのように出っ歯ではなかった。
港川人のこのような頭の形や顔つきは、大昔の原始的な生活をしている人々に共通して見られるもので、硬い食物を咬んだり、歯をペンチの代わりとして使ったためと考えられる。縄文人の頭や顔つきも、港川人ほどではないにしろ、同じような傾向がある。また、それ以外の特徴でも港川人と縄文人は似ている点が多い。したがって、港川人が進化して縄文人になったということに関してはあまり異論がない。
ところで、人骨の形から推定できる特徴はよいとしても、それ以外の体表の特徴に関してはどうだろうか。直接の証拠がないので確かではないが、港川人や縄文人の骨は、現在のアイヌや沖縄人の骨に似ているので、体表の特徴も似ていたはずだ。つまり、目は2重で、眉やヒゲは濃く、唇は厚めだったろう。耳タブも大きかったらしいことに関しては、おもしろい間接的証拠がある。縄文人は、直径4センチもある、はめ込み式の耳飾りを愛用していた。耳タブがもともと小さかったら、いくらなんでもそんなには広げられなかっただろう。港川人も同様だった可能性が高い(挿図5)。

35-5 港川人1号壮年男性復元胸像

(5) 年齢のわりに進んだ老化現象
港川人1号人骨の個体の年齢を推定するのは、簡単ではなかった。脳頭蓋の縫合は開放しているので、比較的若いことを示している。前歯は歯冠がほとんどなくなるほどすり減っているので、時代の古いことを考慮しても、壮年中期以降に相当する。恥骨結合面は、もとの軟骨結合面の畝状の形態を完全に失い、粗面となり、周辺の化骨も進んでいるので、40歳以上の段階に相当する。椎骨関節面に細かい変性部分が見られる点は、普通では老年期に相当する。椎骨の椎体が楔形に変形している点は、骨粗鬆症の存在を示しており、通例では老年期に当たる。
以上を総合して判断すると、港川人1号の年齢は、壮年後期と見なすのが適当であろう。そのわりに、椎骨などの老化現象が激しいのは、当時の厳しい生活環境を反映したものと解釈される。

港川人はどこから来たか

(1) 東アジアの化石人骨
日本人の起源を探るためには石器などの考古学的証拠が最も豊富で有効だが、人間自身の起源とはギャップが生じる可能性がある。そこで、人骨資料が直接的証拠として重要となる。最古の日本人である港川人は、アジア大陸のどこかよそからやって来たのか、それとも、もともと日本列島に住んでいたのだろうか。その疑問に答えるために、更新世末期から完新世前期(3万年〜5000年前)の東アジア化石人骨の形態研究がなされている。しかし、一般的に、人骨の発見例は極めて少ないので、人骨の形態から類縁関係を推定するのは限られた範囲でしか効力を持たない。

(2) 長谷部言人・鈴木尚の中国南部起源説
港川人頭骨の記載研究をした鈴木は、港川人と比較する相手として、地域的にも近く、計測データも詳しく公表されている中国北部の山頂洞人と中国南部の柳江人を選んだ。そして、港川人と似ているのは柳江人だと結論した。その根拠は、まず、山頂洞人は大柄であるのに対し、柳江人は小柄で港川人と同じくらいなことである。次に、頭と顔の主な計測値の多変量解析結果によると、港川人は柳江人と似ているが、山頂洞人とは似ていないことがわかったからである。
そこで、鈴木は、柳江人の年代が3万年前と報告されていたことも参考にして、柳江人が沖縄に渡って港川人になり、さらに日本本土に来て縄文人になったと考えた。すなわち、東京大学教授・長谷部言人がかつて唱えた日本人河南(華南)起源説と同様の結論である。山頂洞人に比べれば柳江人の方が多少とも港川人に似ていることは否定しないが、それだけで日本人の故郷を中国南部であると結論することは難しい。

(3) ターナーa郎のスンダランド起源説
国際日本文化研究センター教授・埴原和郎は、かつて、モンゴロイド(黄色人種)の歯の特色としてシャベル形切歯(切歯の裏側の外側が隆起し中央部がくぼんでいるもの)や下顎第一大臼歯の屈曲隆線(咬合面の前内側の隆起である近心舌側咬頭が中央に伸び出すもの)などの出現頻度が高いことをあげた。
アリゾナ州立大学教授・クリスティー・ターナーは、それを発展させて、モンゴロイドの歯をスンダ型と中国型の2つに分類した。スンダ型は歯の形が単純であり、スンダランド(かつて氷河時代にインドネシアからマレーシアおよびフィリピンに至る地域に存在した陸地)とその周辺の人々に多い。中国型は歯の形が複雑であり、中国とその周辺の人々に多いと同時にアメリカ大陸先住民(インディアン)にも多い。
ターナーはスンダ型の歯がモンゴロイドの基本であって、中国型の歯はスンダ型の歯から生じたと考えた。さらに、ターナーは、現代モンゴロイドは3万年ほど前にスンダランドから発生し、中国に広がり、さらにベーリング海峡を越えてアメリカ大陸に行ったと推論した。
ターナーと埴原は、港川人の歯は原始的要素を持ったスンダ型であるから、港川人は2万年ほど前にスンダランドから沖縄にやって来た人々の子孫だと考えた。つまり、日本人はインドネシア起源ということになる。ただし、国立科学博物館研究官・松村博文は、単純で進歩的なスンダ型の歯から複雑で原始的な中国型の歯が生じたという考えに反対している。筆者も松村に賛成である。

(4) 化石人骨研究の実態
最近、筆者は、本物の頭骨あるいはできる限り質の高い頭骨化石模型を手に入れ、互いの形態を直接比較することにより、港川人の類縁関係を研究している。山頂洞人・柳江人・資陽人は中国から良い模型を入手した。また、柳江人は本物を手に取って観察する機会を得た。ニアー人は本物を観察すると同時に、札幌学院大学教授・佐倉朔が最近に復元した模型を検討させていただいた。ワジャク人は大英博物館研究官・クリス・ストリンガーが復元し直した頭骨の模型を港川人の頭骨模型との交換で入手した。フックグロット人の頭骨模型はサンタ・モニカ大学講師・アンドリュー・ネルソンに提供してもらった。
これらの人骨と模型を検討してみると、資陽人は極めて現代的であり、比較の対象とならないこと、また、ニアー人はそもそも全体の保存状態が悪い上に顔面の形態がわからないこと、そして、フックグロット人も顔面が残っていないことが確認された。
結局、頭と顔の両方の形態特徴を適切に比較できるのは、港川人・山頂洞人・柳江人・ワジャク人のみである。たった4例と思うかもしれないが、港川人は男性1号の他に女性2・4号の頭骨があり、山頂洞人も男性101号、女性102・103号がある。柳江人は1例しかない。ワジャク人は男性1・2号がある。そして、すぐそばで発掘されたフックグロット人(性別不明)もワジャク人の一部と考えてよい。すなわち、合計10なら、まあまあの例数である。もっとも、これらすべてが完全な資料ではないが、それぞれ中心となる完全な資料とよく似ている。
これらの資料の年代は、はっきりしないものもあるが、3万年前から1万年前あるいはもう少し新しいと考えてよいであろう。すなわち、更新世末期あるいは完新世初期である。柳江人が7万年前という報告もあるが、いくらなんでも、そうは考えられない。もし本当ならば、アジアの人類進化の歴史がすべてひっくり返ってしまう。

(5) 筆者の考える太平洋海岸部起源説
結論を先にいってしまおう。筆者の形態分析結果によると、中国内陸部の山頂洞人と柳江人は互いに似ており、太平洋海岸部の港川人とワジャク人が互いに似ている。そして、内陸部の山頂洞人および柳江人と、海岸部の港川人およびワジャク人とは似ていない。このような結論を下すためには、いくつかの特徴がセットで類似あるいは相違していることを示す必要があろう(挿図6)。

35-6 更新世末期のアジア化石頭骨の比較。港川人とワジャク人では、上から見た頭の形が卵型である。また、頬骨(Z)が額よりも外側にでっぱっており、眉弓(A)より眉間隆起(G)が発達している。山頂洞人と柳江人では、頭の形が俵形である。また、後頭部の髷状隆起(C)と眼窩下縁の隆起(O)があり、眉間隆起より眉弓が発達している。

第一の特徴は頭の形である。港川人とワジャク人の頭は、側頭窩が大きいために前方の幅が狭い。また、耳の後上方が横にでっぱっているために、中央やや後方の幅が広い。上から見ると菱形あるいは卵形である。一方、山頂洞人と柳江人の頭は細長く、前後であまり幅が変らないので、上から見ると長楕円形あるいは俵形である。港川人とワジャク人の菱形あるいは卵形の頭はフックグロット人も同じであり、さらに、縄文人とも同じである。一方、山頂洞人や柳江人の長楕円形あるいは俵形の頭は、何百例もの縄文人骨の中にもまったく見られない。
このような頭の形の違いは、側頭筋の発達のパターンの違いによると考えられる。港川人のような頭では側頭筋の前部が特に発達しているのに対し、山頂洞人のような頭では側頭筋全体が均等に発達している。そのために、港川人では側頭窩の前方が強くえぐられて卵形になるが、山頂洞人では側頭部全体が押されて俵形になる
第2の特徴は後頭部の髷状隆起だ。これは後頭骨の上半が丸く後方に膨らんだ状態であり、丸髷を付けたように見えるので、この名前が付いた。フランス語では文字どおりシニオンという(女性にはなじみがあるだろう)。この髷状隆起は中国の山頂洞人と柳江人にはよく発達しているが、港川人やワジャク人では極めて弱い。そして、縄文人には見られない。
そもそも、髷状隆起はヨーロッパのネアンデルタール人に必ずといってよいほど多く見られ、原始的特徴だといわれていた。しかし、時代的には新しい山頂洞人や柳江人によく発達していることから、単に原始的と考えるよりも、長く低い頭の形と関連した現象とも考えられる。事実、同じ現代人でも、長い頭のアフリカ人にはかなり多く、丸い頭の現代日本人にはまったく見られない。ただし、もし完全に頭の形と相関する現象ならば、第一の根拠に含まれることになる。あるいは視覚との関連による大脳後頭葉視覚野の特殊な発達によるとの奇説もある。
第3の特徴は眉間の発達である。現代人でも、男性ならば、大なり小なり眉間と眉の部分がふくらんでいる。一般に、昔の人々はこのふくらみが強く、眉間隆起や眉弓と呼ばれる。眉間隆起と眉弓が一続きになって発達すると眉稜あるいは眼窩上隆起と呼ばれる。港川人・ワジャク人・フックグロット人・縄文人では、中央部の眉間隆起が眼の上の眉弓より発達しているのに対し、山頂洞人と柳江人では眉間隆起よりも眉弓の方が発達している。
第4の特徴は頬骨の位置と方向だ。港川人とワジャク人では頬骨が前に位置し、しかも前方を向いている。典型的なモンゴロイドの状態である。それに対し、山頂洞人と柳江人では頬骨は少し後ろに位置し、やや外側を向いている。もちろん、充分にモンゴロイドの範疇に入る程度であり、コーカソイドとは違っている。 頬骨の位置と方向は、頬骨の裏側の側頭筋がどれだけ発達するか、またそこに付いている咬筋のどの部分がどれくらい発達するかによって決められる。港川人では側頭筋の前部が発達し、同時に咬筋は頬骨の前半に付いている部分が発達するので、頬骨が前に位置し前方を向く。それに対し、山頂洞人では側頭筋の前部は特に発達せず、咬筋は頬骨の後半と頬骨弓に付いている部分が発達するので、頬骨が後退し外側を向いている。
第5の特徴は眼窩の下縁の形だ。山頂洞人と柳江人では、眼球の入る眼窩の下縁に沿って、頬の面(上顎骨外面)に隆起がある。港川人とワジャク人そして縄文人では、そのような隆起はない。あるいは、あっても極めて弱い。この隆起は、下方の上顎骨体前面に、犬歯窩が発達したために突出して見えるとも考えられる。なぜ違いがあるのかはよく説明できないが、区別できることは確かである。
以上のように、更新世末期から完新世前期までの期間は(2万〜5000年前)、東アジアおよび東南アジアでは、太平洋海岸部と中国内陸部とで頭骨形態に明瞭な違いがあるので、港川人およびその子孫である縄文人はインドネシアのワジャク人やフックグロット人とともに太平洋海岸部のまとまった集団を形成していた可能性が強い。このことは、必ずしもターナーや埴原のような港川人のスンダランド起源説を意味するのではなく、海岸部における人々の交流の多さを意味すると考えたい。すなわち、日本人の深層をなす更新世末期の集団は、どこかよそからやって来たのではなく、もともと東アジア太平洋海岸部にいた人々に起源を発しているのであろう。

(馬場悠男)

参考文献

Suzuki, H. and K. Hanihara, eds., 1982,“The Minatogawa Man”. Bull. Univ. Mus., Univ. Tokyo, vol.19.
鈴木尚、1983、『骨からみた日本人のルーツ』、岩波新書
Baba, H. and S. Narasaki, 1991,“Minatogawa Man, the oldest type of modern Homo sapiens in East Asia” Quatern. Res., vol.30: pp.221-230.
馬場悠男 編著、1993、「現代人はどこからきたか」、『別冊日経サイエンス』、日経サイエンス社
馬場悠男、1993、「港川人はヨソモノなのか」、朝日ワンテーママガジン14、『原日本人』、朝日新聞社、59〜72頁
馬場悠男、1994、「最古の完全な日本人化石・港川遺跡」、朝日ワンテーママガジン32、『日本の遺跡50』、朝日新聞社、167〜171頁


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