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絵画

(日本)


48 狩野探幽「探幽縮図」


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紙本墨画淡彩(巻子装)
日本
法量については本文参照
江戸時代(17世紀)
資料館美術史部門

江戸幕府の奥絵師として江戸初期の絵画界の中心的位置に立っていた狩野探幽(1602〜1674年)は、自らの作品創作に打ち込む一方で、諸大名家から持ち込まれる古画の鑑定を行うとともに、それらの古画を模写し、自らの或いは狩野家を頂点とした流派全体の絵画制作の参考に供する資料を蓄積していった。それらは、実物大に近い大きさで精密に写した模本ともいうべきものから簡略に縮小して模写した縮図といわれるものまで様々な種類があり、その数も現存するものだけでも相当の量になる。

これら探幽による縮図類は、伝世の過程で散逸し、現在では諸家、諸機関に分蔵されているが、近年、各所蔵家によりこの探幽縮図の紹介も行われている。

ここに紹介する東京大学文学部美術史研究室蔵「探幽縮図」は、これまで未紹介の1本であり、これまでの探幽縮図研究にわずかではあるかもしれないが新たな知見を提供するものであると思われる。

本図巻は、何時の時点で本研究室の所蔵となったか不明であり、それ以前の伝歴についても知るところはない。桐箱に収められた1巻の巻物であり、箱蓋表には「狩野探幽斎真蹟」と墨書される。また、箱蓋裏には「巻物縮図 七十六枚 書共 古筆了悦」とあり、幕末から明治前期の人で、古筆宗家第12代の了悦(1831〜1894年)の箱書きが成されている。

箱の身の木口には、
「巻物
縮図
狩野探幽筆
り百二十九号」と書された貼り紙があるが、これが、何れの所蔵家における登録番号であるのかは分からない。その他、添状等の文書は一切伴われていない。

図巻の巻首の裏端には金砂子散らしの紙を貼り、「図取 探幽筆」と外題を墨書する。京都国立博物館蔵の「神仏図巻」の外題にも「探幽図取巻物」と、「図取」という言葉が用いられているが、探幽自身はこれらの縮図を「地取」と呼んでいたと考えられている。本縮図の下段巻頭より第49図目の「騎獅文殊図」(以下「下4九」のように略記)にも「ぢどり」の語が留書きに現れている。

図巻は、上下二段にわたって縦14糎前後の幅を持つ縮図の断簡が貼り込められた体裁となっている。上段には37紙、下段は、最末尾の留め書きのみを記した細長の一紙をその前の唐人物図に連続するものと考えれば、39紙あることになり、上下合わせて76紙となって、古筆了悦が箱書きをした時点での紙数に一致し、以後の改編は無かったものと推定される。

一紙には二図三図と連続して写し取られているものも多いので、図の数は紙数より多くなり、上段54図、下段56図の、全110図ある。

各図には、年記や探幽の所見を記した留書きを伴うものも多い。本図巻に収められたものの内最も早い年記を伴うものは、「下二二」の「人麿図」で、「寛文三年(1663年)八月六日」である。最も遅いものは、下一三の「羅漢図」で、「寛文十二年(1672年)七月十八日」である。

現在伝存している「探幽縮図」は、明暦年間の大火でそれまで蓄積した縮図を一旦は失ったであろう探幽が、以後再び不屈の情熱で筆写、収集したものが大半であると見られるが、本図巻に収められた各図もまた、寛文という年記からしてそのような縮図の例にもれないであろうと考えられる。

また、各断簡は、年記順などの法則に沿って配列されてはおらず、並び方は乱れている。

伝世の途中で散逸しかけたものを後世一巻にまとめて、本図巻はできあがったのであろう。

本図巻所収の各図の画題と留書きの内容については、次章以下に、留書きの釈文を掲げるとともに検討を加えて行きたい。

なお、本図巻では、各図ごとに「生明」(白文瓢印)が押されていたようだが、下三六「王冕筆墨梅図」と下段最末尾の「唐人物図」留め書きの一紙を除いて、全てかき消されている。この「生明」(白文瓢印)は、他の「探幽縮図」においても見られるものであるが、ここでは如何なる理由によって抹消されたのかは不明である。

「探幽縮図」 上一 虎渓三笑図
  寛文八十月三日 中山主馬与来 雪村之由申来 弟子之ゑ屏風之義不知候由申遣候
上二 寿老人・西王母図
  寛文七正月十九日 七丞見せ候 日本ゑ 筆不知候 からゑ等ニて書候もの也
上三 雲竜図(註1)
  寛文五八月二十四日 前田□部与来 羅漢ハ上と同事也 明兆と申来候 上のゑ見事也 上と同筆 可翁ニも可有と申遣候
上四 豊干図
  寛文九七月廿六日 可翁 藤左門見せ申候 外題もの也
上五 寒山図
  開口吟詩意在
  何処握筆寫成
  機落第ニ
  玉几 栄裕賛于無
  法印懸物うつし
上六 四睡図
  人無害虎心
  虎無傷人意
  合眼相忘
  開眼亦如是
   徑山 山月
上七 唐人 耳図
  留書きなし
上八 寒山拾得図
  同十二月廿七日 や市郎兵衛見せ候 古法眼印有
  正筆 外題遣候
上九 観瀑図
  同六月十三日 月文より来 筆不知候 日本ゑ 四      
 「石溪」(朱文重郭方印)
上一〇 高士観瀑図
  寛文六二月七日 意運方与来 永徳はりゑ 筆不知候 かひし  
上一一 朝鮮貴人図
   張時達 戴廷珍 陳広夫 劉時雍 李賓之
上一二 文会図(註2)
  留書きなし
上一三 高士観瀑図   周継雪村筆 同六月廿六日 印    伝右門与来 山水屏風致もの也
        後外題遣候      藤右門取次  うすさいしき
上一四 雲龍図
  留書きなし
上一五 詩の字作り図
  同四月廿七日 小笠原丹波与来 古法眼筆外題遣
上一六 君臣魚水図
  留書きなし
上一七 文王呂尚図
  留書きなし
上一八 夢賚良弼図
  留書きなし
上一九 樹下高士図
  寛文九三月五日 上野御門跡与来ル 筆しれ不申候
上二〇 吹笛図
  同二月晦日 栗原仁右門与来 日本ゑ 筆不知候由申遣候
上二一 涸湖忍益之図
  同十二月八日 了村持参 筆不知す候よし申遣候

 涸湖忍益之図
諸経要集忍益篇云、佛告諸比丘、過去世時阿練若池水辺有二雁、与一亀共結親友、後時池水涸竭、二雁作是議言、今此池水涸竭、親友必受大苦、議已語亀言、今此池水涸竭汝無済理、可一木、我等各一頭、将汝著大水処、木之時慎不可語、即便之、(経)過聚落、諸小児見皆言雁亀去、(雁亀去)、(亀)即瞋言、何預汝事、即便失木落地而死、爾時
世尊因此説偈言、
夫士之生 斧在口(中) 所以斫身 由言悪言 
応誉入毀 応毀反(誉) 自受其殃 終無復楽
西明寺釈道世述意云、蓋聞忍之為徳、最是尊上、持戒苦行、所不能及、是以提比丘、被刑残而不恨、忍辱仙主、受割截而無瞋、且慈悲之道、救抜為先、菩薩之懐、愍惻為用、常応遍遊地獄、代其受苦、広度衆生、施以安楽、豈容微有触悩大生瞋恨、乃至角眼相看、悪声色、遂加杖木、結恨成怨、或父子兄弟、自相損害、朋友眷族、反更侵傷、悪逆甚於鵄梟、含毒逾於蜂、所以歴劫怨讎、生々不絶也
右出大蔵對字函

上二二 羅漢図
  同十一月廿二日 牧ゑ之由 大方之絵也 龍も有之候由 筆不知候由申遣候
  友伝持参申候
上二三 六祖図
  寛文九十一月廿二日 雪舟筆 名あり
上二四 文会図(註3)
  此上也
   寛文六十二月廿八(四カ)日 池田九郎左門持参申候 中古ゑ 筆不知候
上二五 南泉斬猫図
  留書き無し
上二六 不動明王図
  留書き無し
上二七 天神図
  醍醐忠臣洙泗偉人 摧邪顕正括古該 今梅兮飛西海松兮茂東林 夫是之謂北野天満天自在天神者也 建長白雲叟拝賛
上二八 杜子美図
  雪舟筆
  同十二月十五日 安斎持参申候
    ニてなし(訂正)
  正筆と申遣候
  竹中監物と申人ノ在 少々来候由
上二九 霊照女図
  同十五日 太郎右門かけ物 □花寺 古法眼と外題遣候
上三〇 人物図
  二幅対 松平市正殿与来 書記ノ由 むさとしたるゑ也
上三一 達図
  同十一月 常知持参申候 中古ゑ 筆不知候
  
上三二 達磨図
  大徳方丈有
上三三 観音猿鶴図
  同
上三四 山水図
  留書き無し
上三五 蘆葉達磨図
  八月晦日 吉田拾兵衛見せ候 かんひの由 日本ゑ 古きものニて 書も 筆不知候
  具哉流機這緯翁 芦花吹雪渡頭風 無端射得神光□ 後(陵力)箭猶深少室焉 的
         春屋叟宗園拝賛
上三六 人物図
  寛文七二月十日 水野対馬与来 中古ゑ 筆不知候
上三七 林和靖・琴高・鉄拐図扇面
  留書き無し
上三八 蘇東坡図
  李繹為
  東坡一日謁黎子雲、中途値雨、乃於農家仮蒻笠木屐、遂戴履而帰、婦人少児相随争笑、邑犬争吠、坡謂笑所怪也、吠所怪也
  仲能書
上三九 仙人図
  同閏六月四日 常昌持参申候 中古ノゑ 筆(以下欠損)
上四〇 林和靖図
  同廿七日 横田九郎兵衛持参 両ハ花鳥古法眼筆
  同十二月三日 孝昭遠江殿与来 両花鳥 三百貫ニても不苦候由申遣候
上四一 富士図
  同十二月廿三日 成院与来 筆知ほとのゑにてなし
上四二 白衣観音図
  逢古観音證之恵於円通 境空諸塵或佛形比丘入 □垂手化宰害化居士一 視□仁妙厳図乃其土千光王 乃其尺遜機応感為徴 為真□三十二身唯一身
  前比山毘正及賢□賛
  同八月十二日 久服見せ申候 可翁と永真外題有 正筆にてなし
上四三 鳩図
  留書き無し
上四四 唐人物図
  しらが
  寛文八六月二日 土ヤ兵部殿与来 筆知なし 日本ゑ   候もの也 吉右門方へ来
上四五 布袋図
  寛文八五月廿四日 并河甫雲与見せ越候 秋月印 正筆にてなし
  (「雪舟」とあったのを秋月に訂正)
上四六 朝儀図
  鷹司殿
  らん箱
  ツゝのみきにくミ候もの也
  文ひし也
上四七 釈迦三尊像(釈迦・普賢のみ)
  寛文六九月四日 三幅対見せ来 両さいしき絵 秋月ノ由 にせ物也
上四八 鍾馗図
  雪村筆 寛文六九月四日 池田平左門与来 正筆也
上四九 唐人物図扇面
  □月□日
  長左門見せ候 扇子ゑ
  五鄰日本是蓬莢 唐常遠教方士来 笑真妃説私語 連枝比機報君回
上五〇 唐美人図
  □女合別飛□ 宮善為離為葛苺 畢□秋来□初是 何泪倚對親西風 羅白
上五一 独釣図
  同四月十五日 九鬼式部殿与来 中古ゑ 筆不知候
上五二 八仙人図
  二幅対 休甫与来 中古ゑと申遣候
上五三 絵巻断簡
  たえしさかねておかる――(欠損)――おほして本尊にむかひて申様、とし老おとろへてたちゐも心にかなはぬほとになりなば、たれかあはれをかけむ、さらぬまにいのちをめして善処にをくり給へと祈ける。その夜のゆめにわかき沙門一人来て、錫杖をさして口をあけて宝をいれたまふと見る。
上五四 孔子祭礼ノ六幅の内太公図
  是ハ水戸孔子まりニ付被伝付候由 
  寛文九五月廿九日興也(註4)方与来 絵本之内
  孔子祭礼(祀カ)ノ六幅之内
   太公 深衣ノ帯并前へ四節将来之法眼色
  いんの事
   柏栄公□かふり物ノ事
        同□きよろくノ事
   文□公年ノ事 石帯同□やく模やうノ事
 日本人六朝ニ仕二百八十才
 ○武内大臣
 ○俊成九十之賀并 きやうたへ技ノ事
 ○右衡ノ事 魚名書七代ノ孫
下一 高士図(商山四皓か?)
  寛文六二月九日 森川下総殿与(へカ)来 雪村正筆 代ニ百貫も可致候と藤右門方与(へカ)  申遣候
下二 五福斎天図
  同十月七日 清水寺持参 中古ゑ 筆不知候由申遣候
下三 朗庵図
  留書き無し
下四 東方朔図 
  寛文九十月九日 松平民部殿ゑ也 箱ノふたに東方作と有 中古ゑ
  東方苟芒輔弼大之君
  寛文九十月八日 松平民部殿与来
下五 布袋図
  寛四七月廿六日 小浜佐左門与来 民部懸物由 絹也 にせ物 用意ものニてなし
   天堂非比丘欽家筆
  盡獣庸方□足来
  操□毎向
  石山楼子好驚
  意和吉在
  物□辺
  和吉藤自不必
  和泉是夫龍
  集千五方
  林布袋和尚 
下六 寿老人図
  寛文七六月廿八日 板垣善兵衛与来 中古ゑ 後外題相調遣候
下七 三酸・虎渓三笑図双幅
  寛文七六月廿一(六カ)日 二幅対 雪村 にせ物
下八 楼閣山水図
  崇禎壬午夏初写于鵲麸山房似徳安詞兄教政
   古蒲連衡「□平」(朱文方印)「□□之印」(白文方印)
  寛文九九月七日 表卜方来 此賛ノ偽也と申遣候
下九 杜子美図
  寛文九九月六日 前田之左門与来 賛もにせ物 絵不知候由申遣候 賛ニハ外題有
  杜甫騎驢図
  漢々蜀江風可 不騎官馬只騎驢 残生七十吟髭雪 日短乾坤一腐儒
  東海純一休
下一〇 白衣観音図
  筆不知候 牧溪の図ニて写申物也
下一一 羅漢観音図
  同日彦兵衛持参 大師殿ゑ也
下一二 羅漢図
  同七月廿一日 諏訪ノ□持参 南部大師もの由 大形ノゑ也
下一三 羅漢図
  寛文十二年壬子 同七月十八日 内藤左近殿与来 筆不知候由申遣候
下一四 寒山図
  同九月四日湊有与来 印たらと後外題遣候
下一五 花鳥図屏風
  寛文六二月五日 渡辺半右衛門与来 古法眼はりのゑ 筆不知候    十六ワ
 にせ物 得村法眼 生年七十五と有 印も不知候
下一六 布袋図
  寛文十正月 □廿(十カ)五日 堀田備中殿与来 古法眼弟子之ゑ
下一七 墨竹図
  文章高 (軾)公天
下一八 渡海羅漢図
  同八月廿二日 久雅見せ候 にせ物也 
  四明天童第一座雪舟筆
下一九 雲龍図
  行年八十歳雪村画之
下二〇 蘆葉達磨図   寛文八四月二日 □藤右門と申加州衆持候由 まりやま侍三郎持参候
  秋月正筆
  万濱千波一葦横 翩々隻影可憐生 老兼若□截流南 揚子江頭放
  右月石溪之賛
   鉄山叟懶斎謹書□ 「鉄山」(朱文壷印)「宗鈍」(白文楕円印)
   入唐秋月筆
下二一 寒山図
  寛文八四月二日 横田九郎兵衛与来 大形ノゑ 筆しかと不知候 今度火事アイ候
  籏本衆持候由
  大道明々難著語
  無脩無證無今古
  此心如水徹底清
  有千魚児便可数(敖カ)
   高昌蒼巌 「蒼巌」(朱文方印)

 了厨頭擔水焼大
 指亡工画空写个什磨
 当時不是豊干尚在
 国清穏坐
  半人和南 「梅華荘主人」(朱文方印)
  「□□□□」(朱文方印)「□□□□」(朱文方印)
下二二 人麿像
  寛文三八月六日 右近方与来 中古絵筆不知候
  アサキ チャ 鳳凰(風鳳カ)   
下二三 隻履達磨図
  「□□居士」(朱文方印)
下二四 達磨図
  廓然不識
  当機覿面
  敗缺何多
  待驢年(手カ)那
   春浦拝賛 「春浦」(朱文壷印)「宗」(朱文方印)
  寛文四八月四日 巌阿之懸物 下ゑハにせ物
下二五 布袋図
  回頭兜率天 蔵布袋衣底 生涯横一杖
   春屋叟書之
  寛文四七月晦 茂左衛門見せ候 筆知ほとの絵ニてなし
下二六 僧侶像
  同六月廿三日 けんんもの 勘左門見せ候 筆ものニて候
下二七 布袋図
  寛文八五月廿三日 小原角丞見せ候 正筆 下ニ□□なをしもの也
  雪村筆 印有
下二八 布袋図
  寛文八五月廿ニ日 蒔絵師久蔵見せ申候 うたノ助印有 正筆と申遣候(滲む)
下二九 墨蹟
  丹肋畔振鑄動天庭
  白浪堆中踏蘆不回首
  坐断要津年藻歳次
  皮肉骨盡底分張
  嚢無人伝受
  有力量者負之而趨
  智見無拘功名不朽
  可為吾宗土佳久手
   住建長宋蘭溪道隆拝手
下三〇 鍾馗図
  同十月廿八日 松平民部殿与来 雲溪ノ由 正筆ニて無之候由申遣候
下三一 釈迦三尊像
  同十月廿六日 宗三見せ候 筆知ほとのゑニてなし
下三二 白衣観音図
  同十月廿四日 仁兵衛見せ候 国(岡カ)本与来候由 絹作 筆知ほとのゑニてなし
下三三 拾遺古徳伝絵
  (絵)あさぎ

  抑一向専修の義を難する事は、公胤の(み)にあらず。餘人又難云。諸行往生をゆるすとも往生のさわりと成べからず。強に一向専念といふや。おほきなる偏執也と云々。聖人これを聞て云。如斯難ずる者ハ浄土の宗義をしらざるものなり。其故ハ釈尊は一向専念無量寿佛と説き、善導和尚は一向専称弥陀佛名と(釈)し給へり。経尺如此。原空若経尺をはなれて私に義を立てハ、まことに責(る)ところのこと。

  (絵)六(緑)

  源光の云。我はこれ愚鈍の浅才也。此奇童の提撕に不堪。すべからく業を碩学に受て円宗の奥義を可極とて則功徳院の阿闍梨皇円につけて法文を習しむ。彼阿闍梨は粟田の関白四代の後胤三河守重兼嫡男少納言資隆朝臣の長兄隆寛律師の伯父皇覚法橋の弟子、一寺の名匠緇徒の俊人也。闍梨この児の神情を感悦して殊以愛翫す、奇
下三四 瀧見観音図
  留書き無し
下三五 竹林七賢図
  留書き無し
下三六 墨梅図
  紫府与丹来換骨 春風吹酒上凝脂 絶憐一種多情処 莫使游蜂野蝶知
  王冕 「王元章」(白文方印)
下三七 東方朔図
  寛文八十月九日 寺井友右門持参申候 此筆之由申遣候
  廷偉 「日近清光」(朱文方印)
下三八 墨竹図
  十月二日 ―(滲み)―持参申候 三浦―(滲み)―窺申候 ―(滲み)―外題遣候
下三九 墨竹図
  同十月朔日 織田山城殿 可翁印 正筆と申遣候
下四〇 豊干禅師図
  同八月十二日田出雲殿与来 後外題相候 張靖ト外題
下四一 留書きのみ
  同廿二日 中四郎兵衛と申から物や見せ候由 吉丞見せ候 正筆と申遣候 印も有
下四二 観音図
  同廿一日 旧道可持参申候 中古ゑ 筆不知候
下四三 荊和璞図
  友清筆
下四四 仙人図(黄初平カ)
   □恐々臨川別廉 「□用貞印」(白文方印)
  漢節飄薫雪満願 生還豈有鴈書伝 披図喜識中郎面 千古清風尚凛然
   瑯王挙「   」(白文方印)「白雲山中」(白文方印)「雲松巣」(白文方印)
   「土雨日心」(白文長方印)
下四五 唐人抓耳図
   寛文七六月十八(一カ)日 舟越いよ殿与来 中古ゑ 筆不知候由申遣候
下四六 唐人物図
   寛文七六月十四日 右近方与来 中古ゑ 筆不知候
下四七 能阿弥「白衣観音図」落款
  応仁弐六月日為周健毛髪於泉涌寺妙厳院図之 真能七十有二歳
  「真能」(朱文重郭方印)
下四八 寒山拾得図
  寛文四十月廿三日 うたの助ゑ也 想右門見せ候
下四九 騎獅文殊図
  同十八日ぢどり 同十四日宗存持参候 是ハ大草織部殿子国(越カ)中殿与とり次候由 表包む(ハカ)つかし也 張靖と名有 其与よき筆に御被下候への由 月湖と法印外題遣 永真外題有
下五〇 李白観瀑図
  留書き無し
下五一 林和靖図
  留書き無し
下五二 寿老図
  雪舟筆
  同三月八日 松平淡路殿与来 雪舟正筆と申遣候 代金三枚ほと以上ニ申遣候
下五三 唐人物図
  衡山沈叔潤画 辛寅冬日
  寛文四六月六日 其長見せ候 中(古ゑ―欠損―) うつしゑ也 此筆之由申遣候
下五四 山水図
  寛文七六月二日 蜂飛騨殿与来 古法眼印有 事之他見事也 則うつしも有 代百貫ノ上ニても不苦候由申遣候
下五五 仙人図(註5)
  寛文九十月八日 松民部殿与来 弐幅対也
  寛文九十月八日 松平民部殿与来
下五六 皇帝図
  帝詔太為時(村カ)与飲(徒カ)酔于市

註1 雲竜図の左下隅には宅間栄賀の印である「栄賀」(朱文重郭長方印)が、写されている。この印は現存作品ではフリーア美術館蔵「普賢菩薩像」などに用いられている。
註2 本図は「上二四」の前半部に図様が連続する。
註3 註2で触れたように本図の前半部分は「上一二」につながるものである。途中、川向こうで煎茶の用意をしている侍童と淡墨の太い線で型どられた樹木の間に一本縦に引かれた墨線があり、ここで図様は左右に分かれるようである。
註4 興也は水戸藩の御用絵師、狩野興也である可能性も考えられる。
註5 本図の留書きの筆跡はいわゆる御家流風であって、他の留書きとは異なっており、別人の作が紛れ込んだ可能性が考えられる。

以上、留書きを読んで分かる通り、本図巻に収められた縮図は鑑定控として記録されたものが多いと言えよう。

次に、原本の分かるものを中心に、いくつかの興味深い図について検討してみたい。

「上四」・本図の原本は『日本画大成』第3巻・第二図(挿図1)に掲載されている。

「上八」・本図と類似した図に伝牧谿「寒山拾得豊干図」(挿図2)がある。この作品は、筆勢を持ちながら丸みのある滑らかな衣紋線や岩の皴法、あるいは高い岩に囲まれた狭い空間によどむ光の存在を暗示する柔らかい墨法などに「観音猿鶴図」に代表される牧谿画と共通する特色を備えている。この伝牧谿画と本縮図の図様とは豊干の姿とそれを取りまく岩窟が見えない点、拾得の箒が見えない点が異なるが、右方の岩棚で墨をすりながら左を振り返る拾得のポーズや筆を顔の高さにまで上げて岩壁に詩を書き付ける寒山のポーズはほとんど同一である。

48-1 可翁筆「豊干禅師図」48-2 伝牧谿筆「寒山拾得豊干図」

「上八」の「寒山拾得図」は、このような牧谿の「寒山拾得図」を元に描かれたものである可能性は考えられる。しかし、岩壁に詩を書き付ける寒山と岩棚で墨をする拾得という図様は、室町時代の末、16世紀までには普及していたと見られ、近似した図様の作品がいくつか残されている。このうち遮莫筆の「寒山拾得図」(「寒山拾得―描かれた風狂の祖師たち―」展図録、第24図、栃木県立博物館、平成6年2月)は、柔らかい淡墨を用いつつ筆を粗放に運ぶ筆墨法や寒山拾得の顔貌に伝牧谿画との緊密な関係をうかがわせる。この図様は狩野派にも取り入れられているが、例えば、狩野秀頼筆の「寒山拾得図」扇面(前掲栃木県立博物館「寒山拾得」展図録、第11図)では、衣紋線は角張って波打ち、狩野派の人物画の流派的特徴を強く表しており、伝牧谿画との関係は明らかに薄くなっている。探幽にも、類似した図様で描いた孤篷庵蔵「豊干寒山拾得図」三幅対(「大徳寺の名宝」展図録・第130図、京都国立博物館、昭和60年4月)があるが、この作品でも、三幅対の構成上左幅の寒山の向きが右向きに変えられているほか、右幅の拾得は墨をするのではなく岩陰から硯を持ちあげる姿に変えられている。衣紋線も鋭く角張って、掠れも多く、牧谿と言うよりは狩野派の衣紋表現になっている。「上八」の図は、探幽により、元信の作であることが認められているが、以上の例からみて、その判断の根拠は画面にあった印章だけではなく、その画風が狩野派の特色をすでに持っていたからであると推測され、「上八」の原本の画風は伝牧谿画との関係はすでに希薄になっていたと考えられる。

ただし、探幽が伝牧谿筆「寒山拾得豊干図」の図様を知らなかった訳ではない。文人画研究所編『探幽縮図』の15「山水人物花鳥図画冊」40図にはやはりほぼ同じポーズをして岩棚で墨をする拾得の姿が描かれている。この「拾得図」に対して探幽は「牧溪うつし筆不知候」とコメントしており、筆者は分からないが牧谿の図様によるものだと判断している。実際、この「拾得図」は、縮図ではあるが、拾得の顔の表情や、岩の皴法、衣紋線の質などに先の伝牧谿画との近似を見て取ることができる。

こうした筆者の知られない作品を牧谿画と結び付けるという判断は、先に取り上げた伝牧谿筆「寒山拾得豊干図」そのものではないにしても、牧谿筆とみなし得る原本的な作品に対する知識とその原本の図様と筆墨法を踏まえて多様な作品が制作され得るということを知らなければできないはずである。そのような知識は、探幽が古画学習の中で独自に獲得したものかも知れないが、一方で、古画の学習を通じて、中世に行われていた「筆様」中心の制作の中で蓄積され系統立てられた知識を継承していた可能性も考えられよう。

このように探幽は、鑑定において、中世の「筆様」的な1つの原本を中心にした図様と筆墨法の組み合わせ、狩野派などの流派が共通して伝統的に保持してきた流派様式、そして、個々の画人が本質的に備えている個人画風などを判断の手がかりとしているようであり、近世初期に存在した絵画の持つ複雑な諸側面がうかがえる。

「上一五」・本図と同図柄ではないが同じく「詩」の字を作っている図様を描くものに、南禅寺蔵「扇面貼交屏風」中の1図がある(武田恒夫『近世初期障屏画の研究』吉川弘文館・第238図)。また、東京国立博物館蔵の「扇面画帖」にも類似の図がある(『東京国立博物館図版目録・やまと絵篇』東京美術・図80-表8)。また、小西家旧蔵光琳関係資料の中には「歌」の字を作っている図様が見られる(山根有三『小西家旧蔵光琳関係資料とその研究(資料)』中央公論美術出版・本画稿類第14図「歌字人物図」)。

「上一六」「上一七」「上一八」・「上一六」「上一七」「上一八」は、一連の唐人物図であろう。「上一六」は、「帝鑑図説」の第35図「君臣魚水」(挿図3)に基づくもので、漢の昭烈帝、即ち三国時代蜀漢の初代劉備が腹心の関羽、張飛とともに荊州の諸葛孔明の草廬を訪れるところを描いたもの。


48-3 帝鑑図説「君臣魚水」

「上一七」は、周の文王が渭水で釣り糸を垂れていた太公望即ち呂尚と出会うところを描く「文王呂尚図」であると考えられる。「上一八」は、「帝鑑図説」の第10図「夢賚良弼」(挿図4)に基づくもので、商の高宗が夢中に忠臣の姿を見、それを図絵させて百方捜索させたところ山中で道の補修をしていた傅説を見出したというもの。3図の内2図は、「帝鑑図説」に基づくものだが、文王に関する説話は、「帝鑑図説」の「澤及枯骨」ではなくより著名な呂尚との出合いの場面を採用している。しかし3図は、名君が賢臣に出会って、それを迎えるという主題によって統一されている。このような主題の組み合わせの作品として他には、元は六曲一双の押し絵貼り屏風であったと考えられる狩野山楽筆「禅機・唐人物図(十二幅)」(『国華』938号掲載)に、「太公望図」とともに「傅説図」と推定される画も含まれていることが指摘できる。同じく山楽の「帝鑑図押絵貼屏風」には「夢賚良弼図」が採用されている。山楽にはまた「文王呂尚・商山四皓図屏風」(妙心寺蔵)もあり、「文王呂尚図」にも手を染めている。一方、「君臣魚水図」を描いたものはほとんど無いが、「君臣魚水図」と「文王呂尚図」を取り合わせた古永徳筆といわれる「孔明臥龍呂望不熊」屏風の存在したことが知られる(『日本屏風絵集成 別巻 屏風絵大鑑』講談社、125頁、徳川伯爵家売り立て)。この屏風は、現在その所在が知られないが右隻の「呂望不熊図」は先の山楽筆「文王呂尚・商山四皓図屏風」の「文王呂尚図」に近似しており、間違いの無い作品であるとすれば、古永徳筆という伝称も考え併せて、桃山前期の様式を継承した山楽のような画家によって描かれた可能性が考えられる。


48-4 帝鑑図説「夢賚良弼」

このようにこれらの画題は、「帝鑑図説」を日本ではじめて本画に応用したとされる狩野山楽のような画人により、積極的に試みられていたと考えられる。

ただし、本縮図収載の3図の原本が日本の画家によるものか中国画人によるものかは不明である。「上一八」の画面の右上には印文不明の一印があり、筆者を特定する手がかりとなるが、同印を用いた画家を見出すことはできなかった。

また、「上一八」は、遠山の表現が紙の素地を白く残し、空に淡墨を施しているので冬景の表現を行っているようである。「上一六」には梅らしき小さな花をつけた樹木が馬の頭の上方に見えており、これを春の景とすれば、四季山水図としての要素を含めて描かれていることも考えられる。しかし、「上一六」から「上一八」は3図連続して同一紙に描かれており、両端に春景と冬景が来てしまうと、その間にもう一季入る余地はない。あるいは、原本で既に四季四幅対であったものが一幅失われていたのであろうか。

「上二一」・本図中の賛の原典である「諸経要集」は唐時代の僧、西明寺沙門道世の撰集したもので、現在では『大正新脩大蔵経』巻54に収録されている。「涸湖忍益之図」に関する部分は、賛では「忍益篇」といわれているが、『大正新脩大蔵経』では「諸経要集」巻10「忍辱篇第三」と称される。この「忍辱篇」は、「述意縁」、「勸忍縁」、「忍益縁」の3部から成り、賛の前半「佛告諸比丘」から世尊の偈の末尾「終無復楽」までが「忍益縁」の中程の文を引用したものである。賛の後半、「蓋聞忍之為徳」から「生々不絶也」までが「述意縁」の全文を引用したものである。

賛を画面の中央に置き、モチーフを上下に分けた図様が珍しく、興味深い。

「上三二」「上三三」「下一〇」・「上三二」と「上三三」は一連のもので、ともに大徳寺の方丈に有るということであろう。「上三二」の「達磨図」は、雪舟筆「赤衣達磨図」(挿図5)に近似した図様が見られる。「上三三」は現在も大徳寺に所蔵される牧谿筆「観音猿鶴図」(挿図6)を写したものである。ただし、「大徳方丈有」という留書きや、やや簡略な模写の仕方から考えて、この時は直接原本を見て模写した訳ではなく、大徳寺の方丈にあるといわれる作品を写し取った模本的な作品から、重ねて写し取ったものである可能性が高いと考えられる。


48-5 雪舟筆「赤衣達磨図」


48-6 牧谿筆「観音猿鶴図」(台徳寺)

しかし、探幽が牧谿の「観音猿鶴図」の図様を知っていたということは知ることができる。ここで併せて考えたいのが、「下一〇」の「白衣観音図」である。この「白衣観音図」にたいして探幽は「牧溪の図ニて写申物也」と判断を下している。しかし、図様は大徳寺の「観音猿鶴図」の「白衣観音図」とは異なっている。「下一〇」では、観音の向きは左向きに替わっているし、左下に小さな滝が明示されている点も「観音猿鶴図」中の「白衣観音図」とは異なっている。にもかかわらず、探幽が「下一〇」に対し、牧谿の図に基づいて写したものであると指摘しているのは、「下一〇」と同図柄の牧谿画が存在していたということも考えられようが、それよりもむしろ原本である牧谿の「白衣観音図」と「下一〇」の「白衣観音図」の本質的な共通点に対する認識があったためであろう。両者には水辺の岩窟の重厚な深みや幽明な光というモチーフが共通しているし、岩を描く皴法も近似する。

このように、「下一〇」の観音図は牧谿の「白衣観音図」を踏まえた上での変奏的な作品と見ることができる。

この他、京都国立博物館蔵「探幽縮図」の内のl五仏像祖師仙人花鳥獣画冊」中に探幽により「牧溪ノ図にて書」と記された「白衣観音図」がある。この図でも、観音の向きが左向きに変えられている一方で、水辺の岩窟の重々しさや岩の輪郭線の淡墨による滑らかな粗々しさなどが牧谿の「白衣観音図」と共通しており、牧谿筆の原本に基づく変奏的作品であることが推測される。

以上の例から、探幽は、1つの原本的な作品とそこから発する変奏的な作品が形作るまとまった作品群にたいする認識を有していたと考えられ、その対象が近世初期に活躍した探幽以前に制作された絵画であってみれば、それは即ち、現在言うところの、中世の「筆様」方式による絵画制作の世界に結びつく可能性は考えられよう。先にも検討した通り、探幽は「筆様」の知識を、古画学習を通して、また、中世絵画の鑑定を行う上での必要上も、有していたのであろう。

とすれば、現代の我々は探幽の言葉を手がかりに、中世の「筆様」の世界を垣間見ることも可能であろう。それは例えば、先の「上八」の「寒山拾得図」の場合も当てはまろう。

他にも、先に挙げた京都国立博物館蔵「探幽縮図」の内の「四五仏像祖師仙人花鳥獣画冊」に、「牧溪図にて書候え也」と留書きされた「蓮鷺図」のあることが知られる。この図の牧谿筆の原本的な作品は現在知ることができないが、羽を横一杯に広げて左下に首を曲げ、脚を交差させながら左へ流しつつ滑空する鷺の姿と没骨で描かれた蓮花の組み合わせは、牧谿の後継者と考えられる蘿窓の伝称を持つ「蓮鷺図」(高桐院蔵・『水墨美術大系』第3巻、78図)に見えており、それがさらにこれらの牧谿系統の画本に基づくと考えられている能阿弥筆「花鳥図屏風」(四曲一双)のような中世の作品に引用されている様もうかがい知ることができ、そこからまた逆に、探幽の中世絵画に対する認識の正確さもうかがい知ることができるのである。

「上四六」・東京芸術大学資料館所蔵「探幽縮図」中の「大和人物巻」に朝儀の模様を記録した一連の図が見られる。本図は画風からみても、それらに連なるものであると考えられるが、直接図様のつながる箇所は見いだせなかった。

「下三」・本図の原本は、『日本画大成』第3巻66図に掲載される祥啓筆「朗庵図」(挿図7)であると考えられる。原本には朗庵の自賛があり、それによると朗庵が関東から陸奥へ尺八を持って行脚していたおり、鎌倉建長寺の宝珠庵に休息したところ、庵主の祥啓が朗庵の姿を異として紙に写し取ったものが本図であるという。

「下三三」・「拾遺古徳伝」は茨城県常福寺所蔵本が9巻全て揃った完本であり、その他断簡をまとめて一巻とした茨城県無量寿寺本、第8巻のみの西脇家本及びいくつかの断簡の存在が知られている。ここに縮写されたものは絵二段、詞書二段からなる。仮に前から絵一、詞一、絵二、詞二と番号を付けると、詞一は「拾遺古徳伝」第6巻第9段のものであり、詞二は、同絵巻第1巻第9段のものである。詞一の前にある絵一は、第6巻第8段であると推定され、実際常福寺本の同段には近似した図様が見られるが、完全には一致しない。一方、絵二は、第1巻第9段にあたる詞二の前に来るので第1巻第8段であると推定されるが、常福寺本の同段の図様とはあまり近似しない。むしろ、無量寿寺本の同段の図様と近い。だが、無量寿寺本の第1巻第9段の詞書は皇円の履歴について「□闍梨は皇覚法橋弟子」と簡略にしか述べておらず、詞二がその出自を詳細に語っているのとは異なっている。本縮図所載のものは、第6巻8、9段のあとに第1巻8、9段が写されているので、原本は断簡二図、あるいはそれらを張り合わせた残欠本で合ったと考えられるが、現存諸本に直接相当するものはないようであり、「拾遺古徳伝」諸伝本との関係も不明である。「拾遺古徳伝」常福寺本、無量寿寺本については、信仰の造形的表現研究会(代表・千葉乗隆)編『真宗重宝聚英』第6巻(同朋舎出版、昭和63年4月)参照。

「下三七」・廷偉は明の画院画家劉俊の字。本図の原本は、彼の作品である「陳南浮浪図」(相国寺蔵)(挿図8)と近似した作風のものであろう。

48-7 祥啓筆「朗庵図」48-8 劉俊筆「陳南浮浪図」(相国寺)

「下四三」・友清は祐勢即ち狩野正信である。本図の原本はボストン美術館に所蔵されており、また、東京国立博物館所蔵の狩野派模本中により精密な模本が存在している事が知られる。以上については、渡辺一「狩野正信」(同氏『東山水墨画の研究・増補版』所収、中央公論美術出版)および辻惟雄『戦国時代狩野派の研究』(吉川弘文館)の第二編第1章「狩野正信の絵画」、付載1「東京国立博物館蔵・初期狩野派作品の模本に付いて」に詳しい。

「下四七」・本図は能阿弥筆「白衣観音図」(旧溝口家本)の落款部分を写したものである。落款は現存の旧溝口家本と同一で、「健」字の上方が点苔の墨点によりつぶれている様子まで一致している。本図の描かれた縮図の一紙は現在左方が切れてしまっているので、観音の姿や原図にある「秀峰」(朱文鼎形印)等が写し取られていたかも知れないが、墨竹が草率に1本写されているだけであることを考えると、印はともかく、図はあったとしてもさほど精密に写されてはいなかったであろう。 「下五四」・元信画及び伝元信画の中で、比較的本図に近いものは、フリーア美術館の蔵する元信筆「四季花木草花図下絵山水図押絵貼屏風」(六曲一双・『国華』1177号)の左隻第四扇の「山水図」が挙げられようが、類品は他にはさほど見あたらない。本図のような構図の作品はむしろ元信より前の時代の画家、岳翁の作品などに多く見いだせるように思われる。

以上、簡略ではあるがいくつかの問題点について検討を加えてみた。本図巻の紹介を機に、「探幽縮図」諸本の紹介と「縮図」研究への新しい視点の提出及びそれによる研究の深化が一層進むことになれば幸いである。

(付記)本稿の作成にあたっては、多くの方々の御助力を頂いた。特に留書きの釈文については、東京大学教授、河野元昭先生より詳細な御教示を頂いた。また、「拾遺古徳伝」に関する事項については、東京国立文化財研究所、米倉夫先生より数々の御教示を賜った。記して感謝の意を申し上げます。

(伊藤大輔)

参考文献

中村溪男・北村四郎編『東京国立博物館蔵 狩野探幽草木花写生』、紫紅社、昭和52年6月
京都国立博物館編『探幽縮図(上・下)』、同朋舎出版、昭和55年5月、昭和56年5月
『大倉集古館蔵 探幽縮図釈文』、昭和56年10月
文人画研究所編集『探幽縮図』、昭和61年7月


武田恒夫『日本美術絵画全集15 狩野探幽』、集英社、昭和53年4月
細野正信『ブック・オブ・ブックス52 江戸狩野と芳崖』、小学館、昭和53年6月
武田恒夫『ブック・オブ・ブックス53 元信 永徳 探幽』、小学館、昭和54年2月
河野元昭編『日本の美術194 狩野探幽』、至文堂、昭和57年7月
細野正信編『日本の美術262 江戸の狩野派』、至文堂、昭和63年3月


板橋区立美術館『狩野探幽』展図録、昭和58年
福岡県立美術館『御用絵師』展図録、昭和62年
静岡県立美術館『狩野派の巨匠たち』展図録、平成元年
板橋区立美術館『江戸狩野派の変貌』展図録、平成2年
町田市立国際版画美術館『近世日本絵画と画譜・絵手本展I・II』図録、平成2年


「探幽縮図」『国華』32、明治25年5月
「狩野探幽筆倣古図巻」『国華』305、大正4年10月
脇本十九郎「探幽縮図について」『美術研究』4、昭和7年4月
「探幽草木花写生図」『美術研究』8、昭和7年8月
大西芳雄「近世写生帖 探幽・常信」『MUSEUM』18、昭和27年7月
吉田友之「画史編削の場―日本絵画史の劃期をめぐって―」『美学』83、昭和45年12月
大倉基佑「探幽縮図―大倉集古館の縮図類について―」『古美術』60、昭和56年10月
吉積久年「旧岩国藩主吉川家蔵『目利申分書状』をめぐって―探幽関係を中心に―」『MUSEUM』409、昭和60年4月
影山純夫「狩野探幽筆倣古図巻」『MUSEUM』410、昭和60年5月
ベッティーナ・クライン、児島薫訳「ベルリン東洋美術館蔵 縮図画帖『筆園佚遊』」『国華』1091、昭和61年2月
安村敏信「粉本と模写ー江戸狩野派の場合ー」『日本の美学』13、平成元年1月
河野元昭「資料紹介『探幽縮図』(東京芸術大学資料館蔵)」、東京大学文学部美術史研究室紀要『美術史論叢』9、平成5年3月
並木誠士「『隔記』にみる絵画受容の在り方(『隔記』にみる寛永文化の世界16)」『日本美術工芸』670、平成6年7月

掲載の挿図は以下の諸書によった。
挿図1、7『日本画大成第3巻』(東方書院、昭和6年5月)
挿図2、6『水墨美術大系第3巻 牧谿 玉澗』(講談社、昭和48年5月)
挿図5『日本美術絵画全集第4巻 雪舟』(集英社、昭和51年10月)
挿図8『日本絵画館第12巻 渡来絵画』(講談社、昭和46年10月)


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